先週は一日五つの感謝をすることに付いて書きました。感謝する心は周りを注意深く見ることから始まるような気がします。なぜならばそうしないとみんな当たり前になってしまうからです。当たり前の世界には「もっともっと」と言う欲求が湧いてきます。もっと賃金が欲しい、今より良い家に住みたい。良い自動車に乗り換えたい、もっと愛して欲しい等等。このような目標を持つことは人生を豊かにする面もあります。
しかしそれらを達成しても満足しません。私達は自然的である限りこの欲望を抑えることが出来ません。今あることに感謝する生活は霊的、スピリチュアルな生活です。信仰は生活であるといったスウェーデンボルグは霊的な生活を送った人です。
一方怒りは誰にもあるものです。不満の底にもよく見つめると怒りがあります。恨む心の底にも怒りがあります。欲しいという心の底にも怒りが隠れています。悲しみの底にも怒りがあります。私達の生活を振り返ると様々なところに怒りが隠れています。意地悪をされた時背後には怒りがありますが、この試練にはどんな意味があるのかを考えて見ましょう。自分がもっと強くなるため意地悪を経験しているとすれば、それは感謝なことになります。何か得られない時それゆえに怒るとすれば、満足することを覚えるためかもしれません。そうすると意地悪した相手に感謝の念が湧きます。手に入れられない何かがあるとするならばその状況を受け入れることで、感謝なことがあることに気づきます。
怒りは「我」から出てきます。感謝することは「我」を明け渡すことになります。すると不思議なことが起こります。自分が軽くなると同時に状況が変わってくることが良く起こります。その時私達は霊的に成長し、毎日をより楽しく生きることが出来るようになります。不思議なことです。
2014年3月16日(日)牧師 國枝欣一
一日五つの感謝をすることにしています。一日が終わるところで今日一日を振り返り感謝することを思い出し、ノートに書き、それぞれをDVDを見るようにはっきりと再現するように思い出します。簡単な作業ですが続けることが難しいです。時々抜けてしまうことがあります。忘れる時は何かに追われている時です。原稿書き、研修の宿題、一日の予定が終わらない、講義準備、家族の用事に急かされている等々。
現代人の私達は忙しく生活をしています。 何時も何かに急かされているようです。現代人の私も例外では有りません。朝顔を洗う、男性だったら髭を剃るなどは習慣になっているでしょうが、それらはいちいち考えていません。殆ど無意識の行為です。一日の90%は無意識に支配されているというデーターもあります。
また、脳は感謝の念を感じて、それを相手に伝えると自分が心地良くなります。その理由は、脳は自分がしていることと相手にしていること区別できないからと言うことだそうです。大脳生理学ではそんなこともわかって来ているのだそうです。そんなことを知らなくても人の良いところに気づいたり、それを褒めるという形で表現すると人間関係が良くなることは経験的に分かっていることです。
しかし、私達はどうも相手の悪いところに目が向き、そこが気になります。気になると気分は悪くなり、イラついてきます。イラついている自分はその価値にしがみついているのです。実はそれが私の愛の傾向です。それを自分自身と言ってもいいでしょう。これを手放すための練習が一日五つの感謝を捜すことなのです。捜してそれを思い起こして視覚化して眠りに付きます。感謝することで自我を手放しやすくなるというのです。2週間が過ぎました。もう少し続けるつもりです。にこやかになれるかな。楽しみです。
2014年3月9日(日)牧師 國枝欣一
心理学では時々聞く・聴く・訊くの3種類の「きく」が問題となります。聞くは聞こえてくるものを聞く、聴くは一生懸命聴く、訊くは分からないことを尋ねるということです。ところが霊的に「きく」ということもあります。みことばに「きく」時にも上記三種の「きく」は対応しています。
みことばに「きく」ということは、物理的には聖書を視覚を通して読むということですが、それだけでは十分ではありません。その内的意味、霊的意味を把握して、自分にとってはこれはどういう意味かと考えてみることです。ところがこれでも充分ではありません。聖書に詳しくなり、霊的な意味がわかっても、それを単に知っているだけでは何の役にも立ちません。「知ってるよ」というだけでそれが行動に結びついていないからです。
「知っているよ」が「しているよ」「できるよ」になるためには私達の意志に流れてくる神の愛をたくさん受けなければなりません。脳の働きとしてみると「知ってるよ」は大脳皮質という新しい脳の作用で、これが「しているよ」「できるよ」のレベルになると古い脳の部分大脳辺縁系、そしてその下の脳幹と言う最も古い脳の作用になってきます。脳幹の働きは呼吸とか代謝といった生命をつかさどる部分です。ここにはその人の愛が働いているのです。
みことばに聴くと言う時はこの脳幹が働くような聴き方をしなければなりません。知識の絶対量が問題ではなく、神の愛に触れて体が温かくなり、生き生きして来て、生かされていることが感謝になり、今までの囚われから解放されます。このように聖書を読むということを共にしたいと思います。また今日一日感謝なことがいくつあったか思い起こすことも私達の霊的成長のために重要なことです。それが習慣化したときに実は脳幹が開かれ霊的世界が身近なものとなります。ぜひやってみましょう。
2014年3月2日(日)牧師 國枝欣一
「塞翁が馬」と言う諺をお聞きになったことがあると思います。辺境の砦に住んでいた翁の馬が逃げたけど、後になると駿馬を連れて帰って来た。また息子が落馬骨折したたが、そのために兵士にならずに済んで命を永らえたと言う話で、人生の吉凶、災い、幸せは予測できないと言う諺です。
先週新教会員である奥様を亡くされた80代半ばのご主人宅を訪問させていただきました。学徒動員で山形から横須賀に赴任、過酷な労働が原因で肺結核となり、帰郷、農業をしながら、教員となります。敗戦後農地解放がGHQの指導の下進められますが、ご長男がまだ復員されていなかったために農地を手放さなければならなかったところを彼が居たために財産を守ることが出来ました。一方教員としての働きが評価され東京に新しい任地を得、実践と研究の場が与えられました。以来定年まで実践と研究を両立させ、スイスの教育学者ペスタロッチの研究者しても世界的に評価される学者となりました。
定年になってこれからは教育三昧の生活をと思っていたら癌が発見され胃を3分の2切除、てっきり自分は妻に看取られて先に行くと思ってましたが、逆くとなりましたと言って笑っておられました。80才を過ぎてから娘さんに炊飯器や洗濯機の使い方を教えてもらい、アルツハイマーの奥様の看護を看護する。それがどれほど大変だったか容易に想像できますが、彼の笑いにはやりきったという満足感が漂っていました。そこには東北人の粘り強さも感じましたが、同時に彼の研究テーマであるペスタロッチの子供に対する愛が昇華された形でこの老研究者に宿っていると感じました。その昇華された愛は神の愛で、主がこの老学者を深く愛してやまないでいるのを感じさせられました。恵まれた時の流れを感謝しました。
2014年2月23日(日)牧師 國枝欣一
スウェーデンボルグはしばしば自然界としての人体と、霊の世界の関係を相応と言う観点から説いています。心臓と愛との相応、肺と真理との相応をはじめ人体のすべての部分は天界を表象しているといいます。こうした記述から私達はこの自然界にふれることを通して霊の世界を身近に感じていくことができます。
家庭生活、職業生活、教会生活の中にあっても同様で、私達は、生活の中に主の働きを見ることで、当たり前と思っていたことは、実は当たり前ではなく主の働きがあって実在していることに気づかされます。そして感謝の気持ちが湧いてきます。
私達は人体のそれぞれの臓器が特別の個性的な働きをしていることを知っています。そしてそれぞれ個性的な特別な仕事をしている時に、私という個人は健康であるということがあります。健康な状態を維持で来ているということは、神の似姿として私達は天国的な要素を既に与えられているということでしょう。
教会を運営していく時にそこには様々な人の期待や願いがあります。それぞれは千差万別といっていいかもしれません。それ位多岐にわたっています。私達が健康な教会を造ろうと思えば、それぞれの価値観、考え方、そして方法論が出てきて当然です。そこにあるものを皆で出し合って検討しあい、一つづつ決めていくという手間隙のかかる作業を積み上げていくことが必要でしょう。
それは一見のろのろとなかなか前進しないかのように見えますが、実はそこにこそ天国の到来があるのではないでしょうか。私達には、自分の中にある悪を避ける戦いがこのような場を通して与えられているのだと思います。そこに個別の善だけでなく公の善が出現してくるのでしょう。私達の日々が霊的成長の時だとつくづく感じさせられます。本物を目指して精進したいものです。
2014年2月16日(日)牧師 國枝欣一
スウェーデンボルグの著作にも自分に深く気づくことの重要性が書かれています。「善はすべて主から、悪はすべて人間から」と言うことばが著作には何度も何度も出てきますが、これを知り、理解することはできても実感としてとらえることは難しいのではないでしょうか。自分が善い事をしているとしか思えないからです。
ところが「人はみんな本人の決意・意図・目的によって正体が分かり、判別されます。・・・」(真のキリスト教523)とあります。これは彼が霊界で聴いて来た話ですが、この「決意・意図・目的」を私達はなかなか把握できません。心の奥深くにあるために意識していないからです。しかしこの「決意・意図・目的」こそ私達の霊の状態なのです。私達の<いのち>の傾向と言っても良いかもしれません。
しかしこれが分からないと悪や罪から離れることは出来ません。悔い改めも出来ません。結果として再生は夢のまた夢になってしまいます。そして始めて自分の罪に気づいたとき、周りの見え方が今までとは違ってきます。事実に変化は有りませんが"私"の事実対する関わり方が違ってきます。今までの意味づけと違った意味づけが出来るようになるためです。
信仰は生活だというスウェーデンボルグの主張は、"私"の中に働く主、すなわち"私"の中に主をお招きすることですが、それは頭で考えることではなく、感情として体が感じるものです。主が何時も"私"と共に居てくださるという実感が、十戒を結果として守ることにつながります。主が"私"と共に居てくださるという実感は、実はその人が真理から行動するのではなく、善から行動することになるのです。その善は何時も真理に裏打ちされているということになるのです。そのとき私達の信仰は本物になるのです。
2014年2月9日(日)牧師 國枝欣一
私達は誰でも生活の中で枠組みを持っています。この枠組みに沿って生活をしています。その枠組みにあまりにも親しんでいるために枠組みを持っていることにすら気づかないことが実に多いのです。
ですから、このように思うのが当たり前とか、皆も同じように考えると頭から思い込んでしまうことがあります。こうなると周りと軋轢を繰り返し、本人はいらいらせざるを得ません。このような状態に置かれると私達は周りが悪い、いらいらさせる原因は周りにあると考えがちです。
このように考えていくと私達は自分の相手や周りを変えようとしますますいらいらしていきます。私の経験を挙げます。私のパートナーは50ccのバイクを使っています。新しく買い換えてあげたので大切に使って欲しかったのですが、彼女は何時も帰宅するとカバーをきちんと懸けません。私はそれを見て何時もいらいらし文句を言っていました。それを私は繰り返していました。
ある時気づきました。自分がいらいらするのは自分の価値観が原因で相手と価値観が違うのだ。そうならば自分のためにバイクのカバーを直せばいい、そう気づいた私は毎日自宅に入る前彼女のかぶせたカバーを直してから家に入りました。今では 彼女が新しく買い換えたカバーを丁寧に懸けるようになりました。自分を変えると相手が変わりやすくなるという実例です。
自分の枠組みに気づくことは自分の生活を穏やかにすることに繋がります。そして自分理解と相手や周りへの理解が深まります。それは主の視点を持つことと同じなんだと気付かされました。
2014年2月2日(日)牧師 國枝欣一
善と真理がくっ付くとそれは行為となって現れます。その人の善や愛や真理や知恵はそのままでは実態となって現れてこないので他人には分かりません。
これは昔東大の先生から聴いた話ですが、その先生の研究室に先生の秘書を好きになった院生が居たそうです。彼は告白出来ずに悶々としていました。ところがある夕方秘書が帰宅しようと研究室を出たら外は雨が降っていました。彼女はどうしたものかとたたずんでいたようでしたが、丁度そこに別の院生が通りかかり、彼の傘に入って御茶ノ水駅まで行ったそうでした。それがきっかけでその秘書さんは傘を差しかけた院生と結婚したそうです。
この話からも愛は真理や合理性(ここでは傘を差す)とくっ付かないと実態にならないということが分かります。比べようもありませんがたとえ悶々と彼女のことを思っていても それは目に見える実態とならないので彼は結果的に失恋するということになりました。
先週金曜日教会の整理をしようということで6人が集まり半日整理に取り組みました。一番若い人は50代。一番上は80代後半でしたがこの方々と共に働く中でこの方々の教会への熱い愛を感じました。それはその方々の行為を通して感じさせられたのです。善+真理=行為とはスウェーデンボルグの著作のなかにしばしばでてくることですが、同時に真理でない善や愛もなければ、愛や善のない真理は真理でないとも言っています。ですから両方があって行為と言う実態になるので、結果としてはそれぞれの行為を感じたり、見たりして私達は他人の愛の傾向を知ったり、ものの考え方を知るようになるのです。共に働いて心地良い疲れを感じられた一日でした。主の導きに感謝しました。
2014年1月26日(日)牧師 國枝欣一
神秘主義と密教。同じなのか違うのか明確に区別できる人がどれほどいるでしょうか。手っ取り早く広辞苑をみて見ましょう。神秘主義は「神、絶対者などの最高の実在を独自の直接的内面的な経験、直観によってとらえることができるという哲学、宗教上の立場。西洋ではプロティノスに始まり、新プラトン学派やエックハルトなどのドイツ神秘主義が代表的。一方密教は、「仏教の流派の一。容易に知りえない秘密の教えの意。インドで大乗仏教発展の極みに現れ、中国、日本のほかネパール、チベットなどにも広まった。わが国では真言宗系の東密と天台宗系の台密とがある。」とあります。
ということは仏教系の神秘主義を密教といい、西洋の密教を神秘主義と呼んでいることが分かります。両方とも霊的体験をする訳ですが、それを言語化するときには時間と空間の影響を免れないので、書かれた物を読む限り互いに異なっているように思いますが、その著者自身の霊的体験の中核部分は限りなく似ているということがあります。
スウェーデンボルグは通常の人には出来ない天界とこの地上を行き来できた人です。霊的体験を日常的にしていた人です。彼の行動に関する様々な証言集があります。パーティーに出ていた時に数百キロも離れた街の大火を知り、知人の家が燃えそうになったけれどその直ぐ手前で鎮火して家は無事だったという話をしたことや、亡くなった王の支払った領収書を探し当てる話とか様々な話が残っていますが、彼自身はこうした能力をたいしたことだとは思っていませんでした。彼は聖書の内的な意味、それが秘儀ですが、隠された秘密の教えを理解してそれを人々に伝え、キリスト教会を真のキリスト教会にしたいと願っていました。
このことを忘れて神秘体験にのみ興味を持ち、そうしたものに触れたいと願うと私たちに与えられている自由選択の意志と合理的判断を放棄することに繋がり、結果として神から遠ざかる道を選んでしまう危険を犯します。注意しましょう。
2014年1月19日(日)牧師 國枝欣一
来週は学習会です。明治のスウェーデンボルグ―奥邃、有礼、正造をつなぐもの―春風社をテキストにして学びます。瀬上正仁さんは仙台在住の有能な整形外科医です。彼はJSAの会員でもありますが、ご本人は東京新教会初代牧師土居米造師の孫弟子とも思っている方でもあります。瀬上さんは18才の頃から勝又正三師(1924~1980)の集会「魚と水の会」にお母さんを通じて導かれ、師の亡くなられて以降、「愛光会」と改称して集会を続けてこられた方です。瀬上さんの師である勝又正三師と土居米造師はしばしば会っており信仰に関して一再ならず話し合いの時を持っていました。これは土居先生が出しておられた「東京新教会通信」に載っています。私はそれをボストンの神学校に居る時に読んだことがあります。
勝又正三師 「魚と水の会」の核心をなしていたのは「日本の神道の内奥に隠れた神はイエス・キリストであり、その真神を再発見することが、日本と世界の危機を救う」と言う考えであった。(「魚と水 ―ある天才宗教家霊的体験の記録―」瀬上正仁編春風社)そして神道式の礼拝によってキリスト教を信仰しておられたと瀬上さんは言っておられます。
新教会は既成の教会のような形を取って生まれないという考え方は、スウェーデンボルグの考え方です。そして師はいわれます。「一人一人が預言者の自覚を持って神イエスの真理を生活の中で実践することがもっとも大切」と繰り返し強調されたようです。これは全く新教会の考え方で、その面で土居、勝又と続く系譜に瀬上さんが、連なり、「自分は土居先生の孫弟子」と言われるのも納得できます。その孫弟子である瀬上産の著作を学ぶということに「縁」を感じます。すでに瀬上さんの著作をお持ちの方は来週お持ちください。
2014年1月12日(日)牧師 國枝欣一
新年を迎え、皆様も心新たにされ、この一年を過ごそうとされていることと思います。クリスマスと新年を迎えるたびに思い出すことがあります。それは人々の心の持ちようがアメリカと日本では逆と言うことです。日本人の多くは元旦の朝、初詣として神社を訪ね、手を合わせて今年一年の無病息災、家内安全、商売繁盛を祈願します。私は行ったことがありませんが、JR原宿駅では参拝者のために直接明治神宮に入れる駅が開放されたとテレビでは報道されていました。それほど多くの日本人が正月3が日に宗教的になると言うことでしょう。それは日本文化に根付いたものだと思います。町中も元旦は特に空気がりんとしていて聖なるものを感じさせられます。
ところがアメリカの元旦は12月31日からのカウントダウンに始まってみんな大騒ぎをして通常は見られない街の中でお酒を飲み交わしています。ですから1日の朝の町のの様子はゴミだらけというところがあちこちに見られます。そして元旦は祝日ですが、2日からは仕事が始まります。クリスマスはこれと真逆でクリスマス休暇があり、当日は街の中は人気もまばらです。人々はみな家族で集まりクリスマスを祝っているのです。現代ではアメリカでもクリスチャン人口は30%台ですが、文化としてクリスマスの祝い方が定着しているように思います。
新教会人としてこうした文化の違いをよく理解したうえで、どのように新教会の理念を接木していけばよいのかを深く考えてみたいと思います。深く考え、それを意志し、行為として具現化することが求められています。今年も新たなる試みに挑戦していきたく思います。知恵を出し合いましょう。共に新年を迎えられたことを感謝しつつ、緊張感を持って新年を迎えました。今年もどうぞよろしくお願いします。
2013年12月22日(日)牧師 國枝欣一
クリスマスはイエス・キリストの降誕記念日ですが、ギリシャのクレメンス(150年頃~215年頃)という神学者がキリストの降誕日を5月20日と推測しました。4世紀後半にはクリスマスが毎年祝われるようになったそうです。12月25日に祝った最古の記録は336年だそうです。そこには12月25日キリストはベツレヘムでお生まれになったと言う記述があるそうです。25日に定められたのは、その頃行われていた異教の祭り「太陽の誕生」に対抗して「義の太陽」の出現を祝う祭りであったといわれています。コンスタンチノボリスよりエルサレムで祝われたのは後(6世紀)といわれています。異教の祝い方がクリスマスの祝い方に影響をあたえているといわれています。
キリスト教が世界宗教になったのは、教えの進出に伴って、様々な地域の価値観や風習を取り入れたからです。初期の教会はそれだけエネルギーと他を受け入れていく柔軟性がありました。私達の新教会はもともと小さなグループから始まったのですが、新教会の真骨頂は他の宗教を否定しないという点にあります。それがシカゴ万博と共に開かれた世界宗教者会議に現れています。
この新教会の理念を21世紀にどのように生かすかは優れて私達の問題です。企業はイノベーションを続けていかないと倒産してしまいます。教会は法律で保護されているのでその存続は守られています。しかしそれを意識していないと固定化し化石のようになってしまいます。東京新教会もその例外ではありません。今日の社会状況をどのように理解し、どのように関わるのか、真剣に考えなければなりません。主が今求めておられるのは何なのか、そこに我々はどのように関わるのかチェックする必要性を感じます。クリスマスの日にこんなことを考えました。知恵を合わせて考えましょう。みなさんと考え合っていきたいと思います。
メリークリスマス!
2013年12月15日(日)牧師 國枝欣一
このところ年末の慣例になっている清水寺の住職による今年の漢字が「輪」であったことが先週新聞の記事となっていました。車の輪、人の輪、五輪の輪、様々に輪が使われますが、そのどれにも「角」がないというのが面白く感じました。「角」と「輪」は相反するものでしょうか。四角形、五角形、六角形と角の数を無限に増やすと角が取れ「円」すなわち「輪」になりスムーズさを感じます。一方「角」の方は角が立つ、角張る、角を入る(目を怒らせる)のように、「角」の方は物の隅のように何か流れが悪い状態を感じさせられます。
言葉は実体を伝えてくれると共にスピリチュアル、見えないものも伝えてくれます。この「輪」もまた同じで、エネルギーの順調な流れ、循環をも感じさせられます。人の「輪」の中にいると助け合い、支え合いが起こり、皆が物質的にも、心理的にも満たされる感じがします。輪が育ってくると「絆」を生みもっと強力になります。東日本大震災の折によく言われた言葉です。
山と里と海もひとつのつながりを持ってその健康が保たれます。雨が降り、山が健康で植生がバランスよく保たれていると、海の生き物が繁殖し、里に住む人々の生活が豊かになります。自然界の循環はスピリチュアルな世界を表象します。この循環もまた「輪」によって表すことが出来ます。
「輪」と言えば結婚指輪も「輪」です。若い二人が交わすこの指輪は愛の永遠性を表します。それは二人の間の愛だけでなく、神の愛の永遠性をも表しています。「輪」はエネルギーの循環、自然の世界と霊の世界のエネルギーの循環をも表しています。自分の角を取り、無限に「輪」になれるよう、日々の生活を整えて生きたいものです。今年の漢字からそんなことを考えさせられました。
2013年12月8日(日)牧師 國枝欣一
国際宗教研究所が出版している2013年度の現代宗教という本を読みました。東日本大震災に関する論文集ですが、この中に台湾における反原発運動に関する中国人の論文がありました。それによると台湾には現在4箇所に6基の原発があるようです。その内3箇所は台湾最北部に、残りの一つは最南端にあるようです。論文はその4箇所目の原発反対運動の変遷を述べています。台湾は日本と違って長い間戒厳令が敷かれていました。4つめの原発は1980年に計画され、すでに完成し、試験運転がされているようですが、本格的な運転には至っていないようです。
反対運動は30年間続いているようです。 初めは戒厳令下でもあり地域住民の間でもごく僅かな人々の運動だったようです。国民党1党独裁は1987年の戒厳令解除によって民進党が認可され、チェルノブイリ原発事故もあって、民進党が反原発を公約にあげて勢力を伸ばしました。原発反対運動もそれによって全国的なものとなったようです。ところが民進党が政権をとった後も、国民党やその他の推進派の抵抗もあり、原発計画を破棄することが出来ませんでした。
政党依存の反原発運動の限界でした。もともとこの反原発運動は漁民を中心とする地域運動だったのですが、そこに回帰して地域の宗教を中心に勢いを盛り返します。海の女神、媽祖は台湾人と漢族が地域で仲良く暮らしている時(17世紀)に両方の女性たちが発見した神でした。この女神が祭られている廟が運動の中心となり、民族と政党を超えての運動になったそうです。宗教の力は様々な違いを超えて人々を結びつける力があります。それは愛と善、英知と真理の神がそこに働き、共に生きることが出来るためです。台湾の例に学びつつ私達の福島の原発事故を見直したいです。
2013年12月1日(日)牧師 國枝欣一
夢には色々な夢があります。不可解な夢を先々週、先週と見て目覚めが悪い思いをしました。一つ目は自宅の門から見た夢です。私の家の門は小さな丘の谷に向かって開いています。夢ではハワイで学んでいた時に住んでいた家の前の谷のように大きなものでした。そこに中型飛行機が入って来てホバリング(空中停止)しているのです。変だと思ったらその飛行機のエンジンは止まっていました。少しすると右旋回してもう一つの丘の方にすべるように飛んで行き、丘の向こう側に尾翼から墜落していくというものでした。私はそれの一部始終を見ていました。二つ目は、運河沿いのレストランで友人と会うことにしているのですが、その約束が他の二つの約束と重なっていることに気が付いて右往左往している私でした。
両方ともはっきりした夢でDVDを見ているようでした。はじめの夢ではすぐ助けに行こうと家を出ますが、ビジネス街に迷い込んで行けません。周りの人は事故に気が付いていないようです。次の夢では小雨が今にも降ってきそうなレストランの前で私は頭を抱えています。
共通していることは事態が緊迫していると言うこと、それをまえに孤独な状況にあることです。それは今の私自身を象徴している夢なのか、何かを伝えようとしている予知夢なにか今のところ自分でも分かりません。でも目覚めて両方の夢とも何か心の中におりが溜まるような嫌な体験をしました。牢に入れられたヨセフが王様の夢解きをしたように、夢の意味が分かるといいなと感じています。現時点では分からなくても理解できる時が来るのを祈りつつ待っています。
2013年11月24日(日)牧師 國枝欣一
先週の新聞に東海原子力発電所の予定されていた廃炉ができないと言う新聞記事が出ていました。発電所から出る放射性廃棄物を処理する場所が決まっていないからというものでした。高濃度に汚染された部材は安全に処理する方法が確立されているのでしょうか。また汚染されたものを安全に管理するためにはどれほどのお金がかかるのでしょうか。
一方福島第一原発の汚染水が海洋汚染を起すのではないかとの懸念が諸外国から起こっています。 安倍首相は「海洋汚染が起こらないように私が責任を持つ」と海外に宣言しています。でも「ちょっと待ってください」と言いたい気分になります。まるで自分の権力で出来るようなことを言っているけれど、その費用は全部国民の税金で行う訳で、それが一体いくら掛かりどれほど国民が耐えなければならないのか何も私たちには示されていません。安倍首相は海外に大見得を張ったら、国内へ協力を求めるべきなのにそれをしていません。
より小規模の東海原発の処理工程さえ決められないでいるのに、福島原発の原発の廃炉処理は出来るのでしょうか。原子炉の安全神話は崩れ去りました。原子力が最も安い電力であると言うことも否定されました。にも拘らず中進国へ原子炉を売り込む厚顔さです。権力を持った者のおごりを感じます。まして122兆円もの負債を抱えていて、一体どうなるのだろうと思います。隠されているもので顕にならないものはないというのがスウェーデンボルグの教えです。古くは足尾銅山鉱毒事件、水俣の有機水銀中毒事件、そして今原子力の問題です。みな利権と私欲のなせる業です。自分の心の内部を見つめると共に社会問題への注意力を持っておきたいものです。
2013年11月17日(日)牧師 國枝欣一
表題は「おのれの欲っせざる所、人に施すなかれ」と読みくだします。聖書には「自分を愛するように他人を愛しなさい」とあります。同じことを違った角度からいっていると感じます。宗教の教義を見たり比較したりする時、多くの人はその違いに注目します。私達は同じところに気づくより、異なったところに気づくのがどうやら普通のようです。
異なっているところを知ることは、相手をより正確に理解するために大切なことですが、そうしているとなかなか一致することは出来ません。
価値判断をしないで、あることをあると 受け入れることは高い霊性でないとできません。愛のサイドが充分成長していないために、好き嫌いがどうしても出てきてしまい行為のレベルで違和感が生ずるのです。他人には分かりませんが本人は知っています。意識化していなくても無理している、或は演技している自分を抱えているのです。
一方似ていることや同じことを見出そうとする姿勢には、霊的な高さが存在します。そこには、尊敬や慈しみを持って対象を見ようとする姿勢があります。そこには絶対的な存在(私たちにとっては主なる神)が働いているのです。働いてそこから流れてくるものを意識せずに受け止めているのです。
仏教、イスラム教、儒教、キリスト教、ヒンドゥー教など長い歴史を持った宗教はみな個性的でありながらもその中にはどの宗教にも共通する普遍的なものを含んでいます。赤十字やYMCAはその普遍的なものを行為として人々に役立とうとしている団体です。新教会は1787年に産声を上げましたが、上記二つの団体を生み出す背景には新教会の普遍性が働いていたのではないでしょうか。創始者の生きていた時代があまりにも近いのです。
2013年11月10日(日)牧師 國枝欣一
今週は召天者記念礼拝の準備もあり、さまざまな先達に思いを寄せながら過ごしました。私の父は終戦時小樽にいましたが、本社からの指示で東京に戻ってきました。家長であった父は内地の食料事情を考え、多量の食料を買い込み、私がまだ2歳前で、妊娠していた母のこともあって、船で帰って来ました。機雷がまだ除去されていないこともあって小樽から芝浦まで1週間かかったそうです。船内で肺炎にかかり自宅に着いて2日目に父は亡くなりました。家に疎開していた親類と、父の死後、食料の分配で争いが起こり、それが原因で戦後何十年経ってもギクシャクした関係が残りました。
家長の存在する家族は現代にも沢山あります。それは明治憲法下の家父長制度そのものではないにしても意識の中には戦後60年経っても人々の中には残っているのではないでしょうか。家族の文化と言ってもよいと思いますが、家長を引き受ける家族とそうでない家族との確執は出てきます。家長という地位は選び取ることが出来ません。それを引き受ける者にとってはしばしば重荷となります。
しかし私はこの家父長制度の価値観を古臭く捨て去るべきものとは必ずしも思いません。都市化が進み、核家族化が進行し、社会の老齢化した結果、人々が孤立化し、介護などの問題が深刻化しています。家族の絆が震災以降深く人々の間で再認識されました。この絆が私たちに思い起こさせるものの中に親族の集まりがあるのではないでしょうか。先祖の果たした役割を思い起し、感謝する姿勢の中に現在に生きる私達の人生を省みる機会を与えられるのではないでしょうか。その役割を果たすのが現代の家長ではないかと思います。家長の中に主の働きをを感じます。
2013年11月3日(日)牧師 國枝欣一
江戸東京博物館に行ってきました。エドワード・S・モースが見た庶民の暮らし展について新聞で知り、行って見たくなったのです。モースについて私の知っている知識は大森貝塚の発見位でしたが、その個人像をもっと知りたかったからです。モースは明治期に日本に来て日本文化に興味を持ち様々なものを集めたようです。
人々の暮らしの中で使われていたもの、生活用品を集めました。貴族や大名と言った社会的な地位のある人々の使っていた美術的な価値の高いものではなく、庶民が日常使っていた、筆や箒、修繕した跡がある鍋やつぎの当ててある衣類、かなり履きこんだ下駄、髪の毛の付いている櫛などです。これらの物が私達の祖先の生活をリアルに再現してくれます。
ある物は戦後の昭和20年代になっても使われていた物もあり、私の記憶とも繋がります。物が乏しく丁寧に手間隙をかけて修理して使い続けたものがあります。その記憶が明治期の父母の幼少期の生活とだぶりました。懐かしさを感じました。
現代は大量生産大量消費の時代と言えるでしょう。明治、大正、昭和の前半のものはみな土に返ります。しかし現代の物の内腐らないものが沢山あります。これらは永久にと言って良いほど長い時間ゴミとして残ります。
快適さを求め、便利さを追求する結果、私達の能力は確実に劣っていきます。明治の時代に戻ることは不可能でしょう。でも快適さ便利さの追求から私達は自由になる必要がありそうです。不便さを楽しむ余裕を持ちたく思います。我慢が大切なのだと思います。ただ昔を懐かしむのではなく、今を生きるものとして、何が善であり、悪なのか見極める力を上から頂きたく、切に願いたく思いました。
2013年10月27日(日)牧師 國枝欣一
春夏秋冬のある日本は本当に自然豊かな日本です。先週群馬県と栃木県を回ってきました。温泉につかり紅葉を楽しんできました。もしアブラハムがウルを出て日本まで来たら神が約束された「乳と蜜の流れる地」はカナンではなく日本だったのではないかなんていうことを思った小旅行でした。
留学先であったボストンも秋は綺麗でしたが、決定的に違うのは、ボストンの秋は黄色なのに日本の秋は紅葉というように赤が重要な働きをしていることです。そして田んぼには稲が刈り取られ、干されていたことです。
秋は収穫の時でもありますが、同時に台風による災害の季節でもあります。秋雨前線というように夏と秋の間に雨の降りやすい期間があります。最近は台風との関係で1ヶ月分の雨が1日で降るなどということがあちこちで起きています。これが災害をもたらします。
私達の住んでいる日本では地震と台風は避けることの出来ない災害です。この災害に直面し私達の魂は大きな傷を負うことがあります。財産を失い、愛する家族や知人の命を奪うと言うこともあります。アブラハムの家族も飢饉に会い、エジプトに避難しました。そしてまたカナンに戻ってきます。
私達もまたこの苦難から多くのことを学び、人間として成長する必要があります。四季、六季(梅雨、秋雨をいれる)は私達の霊的成長をも表象しているようにも感じます。青空のもとの紅葉は神の恵みを感ずる時でもあります。日々の生活の中で神の働きを肌を通して感じられる時、私達は自分の人生を無駄遣いすることなく、人々との関係の中で豊かに生きられるようになるのだと感じます。
2013年10月20日(日)牧師 國枝欣一
先週の大きなニュースは大島町の台風26号の大雨が原因となった土石流による災害でした。多くの方が亡くなり、まだ救助活動が続けられています。地球温暖化が原因する災害(旱魃、豪雨、砂漠化、海面の上昇による浸水等)が地球上を覆います。 今までは、そうした災害もどこか遠くのことと感じていたのですが、大島町の災害は、そうした災害が身近に迫っていることを私達に伝えているように感じます。
福島第一原発の事故は、私たちに大きな衝撃を与えています。安全神話は完全に瓦解しました。多くの人々がこの事故に影響され、避難しなければならなくなり、農業も漁業も、畜産も多大な影響を得ています。それだけでなく一般人に食の不安を与えています。地球温暖化防止の切り札と考えられた原発が実は人類の滅亡さえ起させる危険な代物であることが分かりました。
その上、この原発事故はテロの危険性に対してあまりにも脆弱であることを世界に知らせました。電源さえ破壊すれば原発を暴走させることが出来るということです。テロから原発を守るために膨大な警備費用が必要です。また事故を起した原子炉を廃棄するために膨大な時間と費用を必要とします。その過程で出る廃棄物の処理も大問題です。
私たちの子供や孫ひ孫がその費用を負担しなければなりません。曽祖父や祖父の浪費が未来の子孫に負担をつけを回すのです。そんなことすべきでないと言うのが素人の私達の考えでしょう。神の絶対的真理は神の本性そのものです。その真理に目覚めることは集合無意識に目覚めることでもあります。その意識は隣人愛に生きることを前提にしています。生活を見直すことでその考えに近づけるのではないでしょうか。
2013年10月13日(日)牧師 國枝欣一
先週ずっとヘイトスピーチが気になって仕方がありませんでした。このヘイトスピーチがちょっとしたことで偏執狂的な愛国心を掻き立て、社会の不安定性をかもしだし、ドイツのヒットラーの時代にユダヤ人が大量虐殺された様な時代が来てしまうのではないかと言う怖れを感じていたのです。真理が逆転して虚偽が真理とされる社会的な雰囲気の到来です。
また、こうした時代にあって教会に何が出来るのかとも考えました。様々な困難を抱えている青年達に何を教会は提供できるのかと考えました。簡単に答えが出るわけではないのですが、避けて通れない課題だと感じています。この青年たちは自分の抱えている問題に目を向けるのではなく、外に敵を作ることで他の人から認められたいという欲求持っているのです。
私たちには教義がありますが、それを振りかざすことが彼らのニーズに応えることになりません。友達もなく、仕事の面でも上手く行かないと感じている若者に、あなたは愛されている、それでいいのだ、今与えられている恵みを伝えてもどれほどの力になるのか、考え込んでしまいます。
"Be!"の青年たちを見ていても自律に時間がかかることを感じています。彼らに必要なものは矢張り承認欲求と言われるものです。認めていくこと、認めているよと伝え続けることの大切さを思います。しかし同時に彼らの欲求不満を安全に発散させることの大切さも思います。ヘイトスピーチは欲求不満の捌け口であるならばそれに見合った行為は何だろうと考えます。その人の所属感が満たされ、その人の中にある不安や怖れが安全感に代わるアクティビティーは何なのか見極めたいです。
2013年10月6日(日)牧師 國枝欣一
先週の後記を読んでくれた会員のお一人からヘイトクライム・ヘイトスピーチに関しては無知と無理解だけではないのだと指摘頂き1冊の本を貸してくださいました。私自身もヘイトスピーチをする人々にレッテル貼りをしそうな位置にいたことを知らされました。
相手をカテゴライズし、レッテルを張ること自身がまた相手を理解しないことに繋がってしまう危険性があります。あることをあるように見るということが以下に難しいか分かります。
さて、在日の韓国朝鮮人や中国人の既得権が、若いごく普通の日本人青年たちを苦境に追い込んでいるという考え方があるようです。その真実を見極める必要があるでしょう。デモ参加の人々の中に非正規雇用の人々が実に多いとも言われています。しかし全労働者の4割近くが非正規雇用という現実の中でそうした人々が特別と言うことはないでしょう。
社会の中で認知されていないと感じている若者たちがネットの呼びかけを通じて集まってきているとありました。私たちの時代の政治的な運動とは大きく違います。そこには常に話し合いがあり、人と人が出会っていましたが、ここではいろいろな不満や孤立感を抱えた人々が一時的に集まってその時の一体感を感じあっているようです。
その一体感を感じるために標的になるのが在日の人々です。弱いものが弱いもの同士連帯をするのではなく弱いものがもっと弱いものを虐げるのがこの世の世界です。 無関心ではなく知ろうとすることは愛の第一歩です。私たちが自分に欠けている神の性質をその生活の中に生かそうと努力する時、自分の中にある異質に気づき、それを無視したり抑圧するのでなく、あるがままを受け入れながら共に立ち、社会を作っていけると新たな世界観を手に入れられるようになるのではないでしょうか。
2013年9月29日(日)牧師 國枝欣一
最近ヘイトクライム、ヘイトスピーチと言う言葉が新聞に出てきます。前者は「憎悪犯罪」、後者を「憎悪表現」と日本語訳が与えられていますが、人種や国籍、宗教、性による差別が原因で起こる犯罪がヘイトクライム、それらの差別を助長し、相手に無力感や憎悪感を起させる表現が後者となります。中東における宗教間の対立、アフリカにおける民族対立など、一見私達から遠いことのように感じますが、こうしたデモが朝鮮半島出身者の多い新大久保でなされたと言うことで、私たちの身近なところにもこうした差別が起きていることに驚きを感じます。
尖閣列島、竹島、北方領土問題で日本は外交上困難な状態にありますが、こうしたことがヘイトクライム、ヘイトスピーチを生む背景にあるように思います。しかしここには無理解と思い込みが常に付いて回るように思います。私たち日本人は一般的に日本史を学ぶ時に近代現代を学ぶ機会が少ないように思います。私の高校時代を思い返してみても近代現代は駆け足でしたし、学んでいない部分も沢山ありました。ヘイトクライム、ヘイトスピーチには常に「相手を知らない」と言う側面があります。
知ると言うことは真理を知ると言うことですが、虚偽は誤謬を生み出します。相手を知ると言うことは、相手の中に働く主を見ることです。知らないと言うことに謙虚になりたく思います。そうすると知ろうと言う気持ちが湧いてきます。知らないことを知ると言う姿勢は真理への愛です。太陽はたとえ雨の日であってもいつも地球を温めています。同じように主は私たちにだけでなく私たちが憎しみを持つ相手にも働いています。だから相手に働いている神を見出そうとするならば、それは決して不可能ではありません。
自分の尊厳を守ることが大切であるように相手の尊厳に敬意を払う姿勢は、私たちに相手をもっと知ろうと言う姿勢をかもし出します。するとそこにはその人や、その民族の中に働いている特別な尊敬できる何かを見出すことに繋がるでしょう。私達はそうすることで信仰を生活化することが出来ます。差別すること、思い込むことをしていてどうして自分の信仰が正しいと言えるでしょうか。
2013年9月22日(日)牧師 國枝欣一
皆様の了解が得られて一週間にわたるスピリチュアルケア学会に参加することが出来ました。スピリチュアルケアというと今まではキリスト教関係者が殆どでしたが、今年は仏教の様々な宗派、神道、新宗教といわれる天理教や大本教、その上宗教学学者もまで加わり、多様性にとんだ学際的な学会となりました。その上アジアのチャプレンも加わり、活力に溢れた会となりました。 東北大学を会場に500人ほどの会員が集まりましたが、東日本大震災との関わりで、被災者の方々に宗教性がどれほど大切かと思わされることが多々ありました。学会中に被災地を巡るツアーがありました。神社とお寺を見て回り、それらの地域に果たしている姿を見せていただきました。2年経ったとはいえ、被災の跡は生々しく残っていました。朝8時から夜10時までの強行軍でしたが、神官や僧侶の地域で果たしている役割も知ることが出来ました。こんな中でお坊さんや、神主さんが、幽霊をどの様に扱うかかなり迷っていると言うことをお聞きしました。というのはそれぞれの集落で沢山の方々が亡くなっていたり、行方不明になっていたりするものですから、彼らは住民から幽霊の話を聴くことが間々あるのだそうです。これにとの用に応えるのかが、分からないと言うのです。 帰りの車の中では、思いがけずお坊さんに対する個人スパービジョンになりましたが、これもまた現地で働く方々の苦悩として学ぶことが出来ました。「百聞は一見にしかず」という諺がありますが、まさにその通りで東京にいては分からないことが沢山ありました。まだまだ書きたいことは沢山ありますが、主の導きに感謝してここでひとまず終わります。
2013年9月15日(日)牧師 國枝欣一
東京オリンピックが2020年に開催されることが決まりました。自民党安倍政権に変わって、庶民には実感がありませんが、様々な経済指標は景気が上向きになっているとニュースで報道されています。明るいニュースばかりではありません。生活を立て直したいと思っている人の生活保護費のカット、精神障がい者厚生年金の見直しが行われて、何とか自立しようと努力している障害者が年金を支給されなくなり、落胆し、病状が返って悪くなり、仕事も続けられなくなると言う実例に出会いました。
それぞれの人が本当に真面目に生活を立て直し、現状から抜け出そうとしているその最中に上記のようなことが進行しているのです。明るい兆しに喜んでいる一方で、生活弱者と言われる方々が益々苦しい状況に追い込まれていると言う現状があります。年金が支給されなくなった41歳の方は、障害者雇用で入社、一ヶ月働いて10万円そこそこの手取りです。年金と合わせてやっと17万で同じ障害を持つパートナーと独立した生活をしていましたが、それも出来なくなりました。
激しい怒りを持っています。その怒りが彼自身を傷つける方向に向いています。そのためにその怒りをバネにこうした社会政策に批判の声を上げることも出来ません。彼を助けたくても当の本人がそれを望みません。障がい者は親に面倒を見てもらえと言うことなのでしょうか。生活保護費のカットにあっている方の親は90に手が届くほどの高齢者で、介護を必要としています。親を面倒見なければいけないのに、面倒を見てもらわなければ生きて行けません。
オリンピックの経済波及効果が何兆円と言われても、それで個々人にエネルギーが湧いて来る感じはしません。それよりも将来への漠然とした不安の方が大きい現実があります。社会的弱者の尊厳が守られてこそ、安心が生まれ、それぞれが自分の役をこなしていかれる社会の出現を実現されるのではないでしょうか。
2013年9月8日(日)牧師 國枝欣一
昨年京都で行われた日本スピリチュアルケア学会(学会は土日に行われるので私はこのとき日曜日の礼拝をはずせないので土曜日の参加だけでした。)では、鈴木大拙の霊性という発表もありました。もちろん発表者は大拙がスウェーデンボルグの著作を訳したと言うことも知っていました。ところが次の日曜日には鼎談があり、カトリックのSr.である高木慶子さん(上智大学グリーフケア研究所長)、聖路加病院理事長日野原重明さん、島薗 進さん(東大教授)のお三方が自由に日本人の霊性ということを話しておりましたが、日野原さんは大拙が帰国後彼の主治医になられたそうです。その時に大拙が日野原さんに「自分はスウェーデンボルグに大きな影響を受けた。」と言われたそうです。また島薗先生も若い時にスウェーデンボルグの著作を読んだということを語られています。
実は大拙が「天界と地獄」、「神知と神愛」(神の愛と知恵アルカナ出版)、「神慮論」(神の摂理同出版)「神エルサレムとその教説」を翻訳し、「スウェーデンボルグ小伝」を書いた後、彼はその著作の中では一切スウェーデンボルグに触れていません。ですからスウェーデンボルグの与えた影響は推測するしかありませんでした。ところが最晩年、日野原さんの患者さんとして大拙が何年にも渡って健康管理のお世話になる中で大拙は上述のようなことを言われたそうです。これは私たちにとって大きなことです。
大拙の座右の銘は「善をなすなり」であったといわれていますが、1910年にひらかれたInternational Swedenborg Congressで大拙は副議長をつとめています。この時に著作の中のOmnis religioest vitae, et vita ejeus facere bonum.(ラテン語)ということばを各国語で書き、大拙は「宗教はすべて人生と交渉す、而して宗教の生涯は善をなすにあり。」と訳しています。この時の経験が大拙の座右の銘になったと考えても良いのではないかと思います。
2013年9月1日(日)牧師 國枝欣一
9月1日は関東大震災記念日です。10万5千人もの人々が亡くなったと言うことです。私達はその後沢山の震災を経験しています。十勝沖地震、中越地震、阪神大震災、東日本大震災などなど。東日本大震災が他の地震と大きく違う点は行方不明者がいまだに沢山いることです。夫が妻が、親が、子供が見つからないと言うことが、ご遺族を苦しめ、悲しみや、喪失感から抜け出せなくなっている大きな要因になっていると言うことです。
ご遺体が見つかって葬儀を行うことが新たなる出発点になっていると言う例は沢山あるようです。遺体に関する私たち日本人の関わり方は、他の民族と異なっているそうです。遺体を丁寧に扱うことで遺族は新しい出発を手に入れることが出来るのだそうです。遺体があり、葬儀を行い、遺体を荼毘に付すことで、悲しい、寂しい現実を受けられるようになります。
阪神大震災では歯科医が遺体確認のために活躍しました。歯の治療歴から本人を特定したのです。東日本大震災では歯科医に加えてDNA鑑定が力を発揮しています。それでも行方不明のままの方々が1600人以上います。死者が遺族のもとへ帰ることは我々日本人には大切なことなのです。生活の基盤である家族を失い,帰るべき家も流され、よりどころであるコミュニティーもずたずたになり、復興計画も遅々としてなかなか進まない中、行方不明者を持つ家族の深刻さを思います。
被災地から遠く離れた地域に住んでいる者として直接的なことは何も出来ないのかもしれません。しかしこの記憶を私達が繰り返し思い起こすことで天災への準備が出来、安心安全を手に入れる、また似た体験をした時にお互いが助け合い、理解することができれば、大難を小難に変えることも可能になって来ると思います。この努力をあたかも自分のこととして考え実践する時に主からの流入が豊かに働くことになり、隣人愛を実践することに繋がります。
2013年8月25日(日)牧師 國枝欣一
8月15日敗戦の日に思わされたことがありました。この大戦による死者は300万人にも及んだと言うことは知っていましたが、そのうち200万人は敗戦1年前の戦死者の総数だと知りました。それが事実とすれば日本の指導者達は国家、国民のことをどれほど考えていたのだろうかと思います。戦争を始めなければ成らない事情もあったことでしょう。しかし戦いを始めたら何時終えるのかを考えることが指導者の役目ではないでしょうか。
アメリカ、イギリス、ソ連のトップが集まったヤルタ会談(1945年2月)の情報は早い段階で日本の武官は得て、ソ連が参戦することを知り、それを暗号電文で日本に送りました。しかしその電文は行方知れずとなりました。天皇にも、内閣にも報告されませんでした。結果として8月に入り、沖縄の米軍が上陸、広島、長崎への原爆投下、ソ連の宣戦布告を受け、満州で、沖縄で、長崎、広島で多くの非戦闘員、一般市民の方々が亡くなりました。 歴史に「もし」と言う言葉はないということは知っています。しかし歴史の研究者たちの努力でその間の事情が少しづつ明らかになって来ています。
上記情報の下に日本が敗戦を受け入れていたら、200万人のうちのかなりの数の人々の命は救えたはずです。これは日本の組織の体質だと言うことを知って、私達はどうすべきかと考えることが必要ですが、戦後もそうしたことは問わず今日まで来ています。
何が真理であり、何が愛なのか問うことも実はこうしたことに深く関係しているように感じます。教会がどうしたら地域のものとなるのか、災害に備えることが何のために役立つのか、今まさに私たちが抱えている解決すべき課題に関して傍観者にならないで心を開いて話し合うことそれが実は一番大切なことなのではないかと思います。発想は大きく、しかし現実なことにはその地域性、個別性を持った形で考え合っていくことこそ何よりも大切だと感じます。
2013年8月18日(日)牧師 國枝欣一
今年の私の夏休みの三分の一は教会の本の整理に当てられました。多分60年間整理されてこなかった本の山ですから一週間朝から晩まで整理に取り組んでもまだまだ残りは沢山あります。それでも礼拝堂脇の部屋は、教会員の力添えもあって、何とか使える形になりました。感謝なことです。どうにもならない古い本やパンフレット、印刷物はダンボールに詰めて資源ゴミに出しました。不要な本もダンボール7箱ほどあるのでブックオフに16日に来てもらい引き取ってもらいましたが、引き取ってもらえたのは僅か36冊のみでした。
ブックオフという会社は今日様々な面から取り上げられる企業でもあるので、興味を持って本の査定の仕方を見ていました。古本屋さんという今までのイメージは本の価値を良く知っている人で幅広い知識を持っている人と言うことから老年期に入り始めた人というものでしょうが、来てくれた人は30前と思われる若い人でした。彼は本の題名や著者などには目もくれません。本の見る場所は本の上辺の汚れ具合だけです。
15日夕方遅くブックオフに行き古本の引取りについて訊きに行きました。お店の前には自転車が14,5台並び、店内には20人くらいお客がいました。古本屋さんにこれほどお客が集まっているお店は殆どないでしょう。店員も若い人ばかりです。確かにお店に活気があり、本も売れているのでしょう。私もかってきれいな定価2500円の本100円で買ったことがあります。
20年以上本棚に置かれた本は日焼けしたり、ほこりをかぶっていたりします。顧客のニーズに合わせることで商売が成り立つと言うことも大切な視点だと思いますが、価値が外面のみによる事に関してはとても考えさせられました。そのものの<いのち>使命が軽んじられている私たちの今と言う時代を目の当たりにされた感じがしました。
2013年7月21日(日)牧師 國枝欣一
私は移動のために最も多く使う交通機関は自家用車です。18年同じ車に乗り続けていてその走行距離は40万キロを越えました。ただ環7より内側、すなわち都心へ近いところへ行く時には公共交通機関を使います。多くの場合それの方が早いし、ストレス(駐車場を探すこと、車の数の多さから来る注意力など)が少ないからです。私は新宿や渋谷の雑踏が苦手です。自分が缶詰のシーチキンになったような感じがするのです。
その いつも感じるシーチキンの缶詰感は何処から来るのか探って見ました。そうしたらありました。もう50年も前のことですが、当時行き始めた私の教会のすぐ隣のブロックから始まる横浜寿町のドヤ街での経験です。当時は高度成長期で横浜港は輸出入の貨物でにぎわっていたのですが、その荷捌きはここにいる単身労働者によって担われていたのです。僅か800mx400mという狭い地域に2万人近くの人が住んでいました。多くは単身者でしたが、家族もいないわけではありませんでした。地域の学校の児童の20%はこの街から通う子供たちでした。街の喧騒、落ち着きのなさ、街の臭いと共にそこでの経験がよみがえって来ました。
缶詰のシーチキンはここから来る私のイメージなのです。自然は無く、人口の構造物ばかりです。もちろん新宿にしても渋谷にしても清潔であり、美しく飾り立ててあります。でも一皮むいたら50年前のドヤと同じだという感じが私の中にあるのです。そこでは人間が尊厳を持って生きることが難しいと言う側面があります。すべてがお金と言う物質によって量られる世界です。
今週はお二人の方を病院に訪問させていただきました。<いのち>を考えさせられる空間のすぐ隣にすべてが物質と思える空間があることに気づかされそこで戸惑っている自分がいることを発見しました。そして疲れている自分を発見し癒さねばと思わされました。
2013年7月14日(日)牧師 國枝欣一
私がこの18年間ずっとしている「種まき」があります。聴くことが出来る人を育てることがそれです。この種まきの結果の一つが横須賀市の社会福祉協議会のボランティア部会から講師依頼という形で現れました。横須賀市では市民の様々な要請に応えるべくボランティアを募集しているのですが、いざボランティアの場面になると戸惑うことが多いので教えて欲しいというのです。この人々の中に10数年前衣笠病院のホスピス開設に伴うボランティア講座への参加者が二人いました。15年以上前に教えた看護学生が認定看護師へと更に自分をキャリアアップさせるために看護協会の養成講座に来て認定看護師となってホスピスで働いています。
このように種まきしてきたことが少しずつ芽を出し収穫へと近づいて来ています。ありがたいことです。聴くという言葉の中には「従う」という意味があります。「ハイ、皆さん聞いて!」と先生はよく言いますが、これは「私に従って」といっているのと同じです。この世的には親の言うことを聴き、教師、上司、同僚、仲間,友人の言うことを聴くということですが、それは内的には主(神)のみことばを聴くということと同じです。なぜならば相手の中に働いておられる主の働きを聞くことと同じだからです。
この世の人のことばを聞けない人が、主のみことばを聴けるとは思いません。他人のことばを聴くということはそれに従うということだけを意味するわけではありません。相手の言っているように受け取ることなのです。しかしこれが難しいのです。それにも拘らず誰も教えてくれません。
究極的にはみことばを聴ける人に私自身が成長し、周りの人々をそこに巻き込むことが目的で、そこに新教会が出来ていけばよいと考えているのです。まだまだ先は遠いというのが現実ですが、こうした種まきの結果があちこちで起こってくると「神様、ありがとう!」と言いたくなります。「種まき」はまだまだ続けなくてはなりません。
2013年7月7日(日)牧師 國枝欣一
神から発出しているものは、愛と英知です。それらは自然界の太陽の熱と光に相応しています。天界の天使は太陽の熱と光を受けるように、愛と英知を受けています。その愛と英知を受けた天使は、善と真理に基づいて行動を起こします。そして神の似姿としての人間に基本的に与えられているものは、自由選択の意志と合理性または理性です。そして自由選択の意志は神の愛を受け止める受け皿であり、合理性や理性は神の真理を受け止める受け皿であるというのがスウェーデンボルグの教えです。
この受け皿である意志と理性を使わないで自分の人生の経験にのみ頼っていると人は生活の中に困難を抱え込みます。それを心理学的にはUnfinished Businessと言いますが、過去の出来事が完了しないまま心の中に残っていると思わぬ時に出てきて私たちの生活を苦境に陥れさせます。
先週40過ぎの女性が混乱して教会にお見えになりました。自分は友達が多い方と見られているけれど、いつも相手に合わせていて楽しんでいない自分がいると言っていました。「何が相手に合わせさせているのですか?」とお訊きすると、「良い人と思われたいから。」と言う答えが返ってきました。そして「小さかった時からいつもいい子を演じていた」とも言われました。
彼女は神の愛の受け皿であり、私たち一人一人に与えられている賜物、選択の自由の意志を使っていなかったのです。
その結果、混乱状態に見舞われていました。しかしお話しする中で彼女は落ち着き、選択する意志を取り戻しました。いい子を演じることは彼女が小さかった時には大人の愛を得るために有効な方法でした。大人になった今はあたかも自分でするように責任を持って選び取らなければなりません。それが腑に落ちるように分かった時彼女はいい顔をして帰ってゆきました。
2013年6月30日(日)牧師 國枝欣一
コミュニケーションにおいて、私達は様々なことを相手に投げかけています。それを称してStrokeといいますが、そのストロークには大きく分けると直接相手の体に触れる身体的なものと、言語的即ちことばによるものと、心理的なものがあります。身体的なものとしては、握手する、ハグする、マッサージすると言うようにされて心地良いものと、殴る、蹴る、つねるなど、されるといやなものがあります。言語的なものとしては、挨拶する、褒める、頑張ったねとか、良くやったね、と言うように心地の良いものと、馬鹿、ブス、早くしなさい、汚いなどと言うように心地の悪いものがあります。心理的な心地の良いものとしては、微笑む、視線を合わせる、頷く、相槌を打つなどがあり、その反対のものは、無視する、聞こえない振りをする、眉をそばだてる、にらむなどが上げられます。
受け取って心地の良いものを+とし、心地のよくないものを-とするならば、人間は誰でも+のストロークを受けたいと思っています。+のストロークをもらいたいのに現実には私達は-のストロークをより沢山もらってしまっているように思います。ところが+のストロークを沢山出せる人は、沢山の+のストロークを受けることが出来るという心理学の法則がここでは働きます。
ところがここでもう一歩前進し、+を出せる時、私達の霊は天界の天使たちと交わっており、-を出している時は地獄の悪魔たちと交わっていると気づけば、実は霊的なことがそこに常に働いていると思えます。私たちの霊的な成長のために、+のストロークを沢山出せるように心掛け、実践することが、この世の教会作りに必要不可欠なのだということが分かると思います。その人の善いことを見出す目は霊的な目です。その目で見たことを+のストロークとして相手に伝えてあげられるようになると、自分のうちなる教会も相手の内なる教会も成長し、この世の教会もしっかりしてきます。
2013年6月23日(日)牧師 國枝欣一
コミュニケーションにおいて、私達は様々なことを相手に投げかけています。それを称してStrokeといいますが、そのストロークには大きく分けると直接相手の体に触れる身体的なものと、言語的即ちことばによるものと、心理的なものがあります。身体的なものとしては、握手する、ハグする、マッサージすると言うようにされて心地良いものと、殴る、蹴る、つねるなど、されるといやなものがあります。言語的なものとしては、挨拶する、褒める、頑張ったねとか、良くやったね、と言うように心地の良いものと、馬鹿、ブス、早くしなさい、汚いなどと言うように心地の悪いものがあります。心理的な心地の良いものとしては、微笑む、視線を合わせる、頷く、相槌を打つなどがあり、その反対のものは、無視する、聞こえない振りをする、眉をそばだてる、にらむなどが上げられます。
受け取って心地の良いものを+とし、心地のよくないものを-とするならば、人間は誰でも+のストロークを受けたいと思っています。+のストロークをもらいたいのに現実には私達は-のストロークをより沢山もらってしまっているように思います。ところが+のストロークを沢山出せる人は、沢山の+のストロークを受けることが出来るという心理学の法則がここでは働きます。
ところがここでもう一歩前進し、+を出せる時、私達の霊は天界の天使たちと交わっており、-を出している時は地獄の悪魔たちと交わっていると気づけば、実は霊的なことがそこに常に働いていると思えます。私たちの霊的な成長のために、+のストロークを沢山出せるように心掛け、実践することが、この世の教会作りに必要不可欠なのだということが分かると思います。その人の善いことを見出す目は霊的な目です。その目で見たことを+のストロークとして相手に伝えてあげられるようになると、自分のうちなる教会も相手の内なる教会も成長し、この世の教会もしっかりしてきます。
2013年6月16日(日)牧師 國枝欣一
私達は、他の生き物の<いのち>をいただくことで命を永らえています。しかしスーパーのプラスチックのトレイに乗っている肉や、魚からいのちを感ずるのは難しいと思います。それでも健康志向もあって家庭菜園を持っていたり、マンションのベランダなどではプランターに種をまいて野菜を育てているなどと言う方もいるのではないでしょうか。 でも<いのち>って何でしょうか。私達は食う食われる関係の中で頂点にいます。ですから<いのち>の連鎖の中にいるわけですが、その私達は今、二人に一人が癌になると言われ、三人に一人は癌で死んでいます。すると食う食われると言う関係で頂点にいるのは人間ではなく癌なのでしょうか。
それでも<いのち>はさずかりもの、すなわちプレゼント、与えられたものであって、私たちが造りだせるものではありません。プレゼントされたものでありながら、「これがそれです。」と言って見える形で差し出すことが出来ません。<いのち>は物質的なものではなく霊的なものだからです。
その霊的なものが見える形で現れるのは、どんな時でしょうか。それはその人の行為によってです。行為は、その人の愛、すなわち意志と、理性すなわち合理的な考えの結果現れてくるものです。スウェーデンボルグは「信仰は生活である」と繰り返し述べていますが、上記の考え方を踏まえて考えてみると、その人の愛が神の愛と繋がっていればおのずとその人の行為は神の愛のこの世に現れた一つの行いと見ることが出来ます。
<いのち>の連なりとしての"私"の存在を考える時、すべてが祝福されている、たとえどんな苦しい状況に置かれていても私達はひとりでない。つながっていてそれでOKなのだということが分かります。ですから日常の食事も作ってくれたパートナーに感謝することを通して実は神に感謝することをしていることに気づかされます。そこに「信仰は生活である」と言う教えが、生き生きと真実だと迫ってくるように思います。
2013年6月9日(日)牧師 國枝欣一
このところ 重い電話が立て続けにかかって来ています。人生の重みに押しつぶされそうになりSOSの電話です。SOSは救難信号ですが、それは何の略語かと言うと、"Save Our Ship!"とか"Save Our Soul!"とかいいますが、はっきりしたことは分からないようです。しかしこのところかかってくる電話はまさしく"Save My Soul!"(私の魂を救って!)と言う必死の叫びです。
それぞれが癒しがたい深い傷を持ちながら必死に生きてきているのに、その上に更なる困難が襲い掛かり、生きているのが不思議と言った状態です。Save My Soul!と言う必死の電話です。深い傷であればあるほどそれを当事者は表現できなくなっています。相談する相手はいなくなり、その苦悩はますます深く、深刻になり、社会から切り離され孤独になっていきます。
知的レベルや経済的レベル、生活レベル、信仰の有る無しに関係なく、こうした魂の危機はいたるところで起こっています。外面的な状況から判断できません。神の働きや仏の慈悲にすがると考える力もなくしています。まさに四面楚歌、五里霧中と言った感じで、それぞれの人が孤立化しています。
援助をする方は大丈夫かと問うと、援助者もまた深く傷付いていることを発見します。祈りの時間が長くなってきます。お一人お一人のために祈り、自らのために主に訴え、祈ります。「主よ!私の魂を救ってください。」と。マザーテレサはインドの路傍に倒れている人の中に主を見て、主を助けざるを得なかったといっています。しかし、そういえるようになるためには手放さなければならない多くのものがあることを見出します。助けを求める声はか細く弱いです。耳を澄ませてその声を自分の内、外に聴いてみましょう。そして自分もSOSを発信している者として人々とのつながりを回復し、共に祈りを奉げることができるようになりましょう。主のみ力が現実のものとなり、私達は謙虚さの上に力を発揮できるようになります。
2013年6月2日(日)牧師 國枝欣一
「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、都の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る」(黙示録22章3.4節)ここの内的な意味は、真の新教会の中には神から離れている人間は一人もいない。主が治められているので、皆、主と 「結びつき」、主と「共にいる」と言うことです。これは霊的世界の話です。自然界の私たちとは大きく違います。
この「結びつき」と「共にいる」と言うことがどうして起こるのかと言うと、それは非常に具体的です。すなわち自分を深く見つめて、自分の中にあるさまざまな悪を見出し、それを主の前で認め、告白し、そこから遠ざかり、悔い改めることです。こうすることによって主によって遠ざけられるのです。このことを人間はあたかも自分自身で意志し、自分で行わなければなりません。なぜならば、人間は それを主によって行っていると感じられないからです。
その理由は、主との「結びつき」は相互的になされなければならないからです。主はいつも人間と結びつこうとされていますが、自分の意志で自分の悪から離れようとした時に、主の愛が流れ込んでくるのです。
こうなると一度だけ内省し、告白し、悔い改めればそれで善しと言うことになりません。繰り返し繰り返し自分を吟味しなければなりません。繰り返し内省することで内省の度合いも深くなり、今まで気づかなかったことも発見できるようになります。これが大切なことのように思います。私達は気づいていない自分の悪しき物をたくさん持っています。それは「謙虚さ」なしには気づけないものでしょう。
自分を反省し、主を思い、主の前に告白し、私達はそれを意識化することによって、そこから離れることが出来ます。今週も静かに自らの心の底を見つめたく思います。
2013年5月26日(日)牧師 國枝欣一
正統と異端と言うことはキリスト教会が始まってからずっと続いている論争です。東方教会といわれる正教と西方教会といわれるカトリックとの争いはやっと今世紀に入って和解と対話が始まったところです。カトリックの歴史は正統を守るために常に異端裁判と言う形で自分たち以外を排除してきました。宗教改革を経てカトリックにプロテストするもの、反抗するものたちと言う意味でプロテスタントが始まり、そこから異端と言わずに教派という言い方が一般化して行きます。それは聖書理解の違いによるもので異端と言わなくなったのです。これが教会の大きな流れです。
経済や技術の世界ではイノベーション(新機軸)と言う表現のもとに、企業の活性化が行われています。それは今までの技術を土台にしつつも全く新しい方向性を持って企業を再生させる考え方ですが、宗教の世界は遅れており、私たちの意識の中にはまだ正統と異端を考える傾向が残っています。あいつは異端だと言っている本人の意識の背後には必ず自分は正統だと言う意識が働いています。それがどんなにおぞましい結果をもたらしているか気づいていないのです。
正統だと思っているときに私達は大きな落とし穴に落ち込んでいることに気をつけましょう。平生は愛を説いている牧師も簡単に差別者になることがままあります。太陽はすべての者に光と熱とを降り注いでいるように、私たちの主もすべての教会に愛と真理を降り注いでいおられます。それを受けるか受けないかはその人の愛の傾向がそうさせているのであって、主がそうされているわけではありません。
それぞれの役立ちの違いを充分認識すればそんなことは起こらないと思うのですが、私たちの無知が異端と言わせ、差別を生み出していると言うことを考えると、常に謙虚さを持って相手をよく知る努力の大切さを思います。
2013年5月19日(日)牧師 國枝欣一
YMCAで働いていた時のことです。YMCAでは毎年何人もの外国人講師を雇います。そのための世界的な組織も出来ていて20代30代の若者がそれぞれの国で応募をして選考され各国へ派遣されます。その中にイギリスから来た女性英語講師がいました。彼女にとって日本人を教えることは初めての経験でした。学生は行儀よく静かに講師の話を聴いているように彼女には思えました。しかし学生たちは殆ど何も理解していませんでした。彼女なりに努力しましたが上手く行かず、パニックになってしまいその講師を支えると言うことをしたことがありました。
アメリカでの授業はいつも対話形式の授業でした。先生方は学生と対話しながら講義を進めていきます。日本人の私はその対話や討論の輪に入っていくのに苦労しました。自分を表現しないとその存在を周りから認めてもらえないのです。
私の講演や講座も対話形式で、殆ど講義スタイルのことはありません。対話形式の方が参加者のニーズが分かると言う利点があります。教えるものが黒板の前に立ち生徒と対面する形の授業スタイルは中世の教会から始まったと言われています。今はこの形式に反省が加えられクウェーカー派でなくとも円陣を組む形で礼拝が守られている教会もありますし、牧師と会衆の自由な応答があって礼拝が進められている教会もあります。
東京新教会は伝統的な礼拝スタイルをとっていますが、礼拝後のお茶の時間を通してそれぞれの方の疑問や考え方を交流しあえればいいなと思います。先週のお茶の時間にはそんなことが起こりました。分からないことは恥ずかしいことではない。分かっている人から聞かせてもらえばよいというリラックスした環境の中でそれぞれの経験が行きかい、自分の信仰を深められたらいいなと思います。こうしたことが起こるのは、相手への信頼感、ひいては主に対する信頼感から出てくるものだと思います。
2013年5月12日(日)牧師 國枝欣一
連休は如何過ごされましたか。私は前半家族みんなが沼津に集まって子供の家族と共に過ごしました。息子が長野県佐久から静岡県立がんセンターに2年間の研修のため移ったからです。後半は臨床パストラル研修センター主催の講座の講師を熊本で務めました。研修終了後長崎市に足を伸ばしました。ここにスウェーデンボルグ派の教会があることを知ったからです。事前に分かっていた事は住所と電話番号だけでした。行き先はコンピューターで検索してもJrの駅からタクシー12.6キロというだけでした。地図はありますが、目標となるものは何も見当たりません。6日に講座を終えてとりあえずなるべく近くまで行こうと諫早まで行きそこで情報を得ようとしましたが、諫早はまだ熊本県。長崎県に入っていませんでした。次の日早く浦上まで行ってわずかな手掛かりでバス会社に問い合わせやっと行ける目鼻がつきました。
近くと思われる地点までバスで行ってそこからタクシーで目的地まで行きました。教会は小高い丘を切り開いた新興ニュータウンの一番高いところにありました。隣には寮がありました。代表の方と信者が生活を共にしながら生き方を学んでいくためだそうです。お話では20代でスウェーデンボルグの著作に触れキリスト教主義の学校の教員になられましたが、その教育方針に飽き足らず、辞職して教員仲間と教え子たちで信仰を実践され、神学の学びを深めて来られたようです。
伝道を一切せず、生活の中で信仰を深めることにつとめたそうです。静思社、アルカナ出版もご存知でしたし、新教会と言う雑誌も読まれていたこと、土居米造牧師に関してもご存知でした。人知れず信仰を守って来られたその姿勢に新井奥邃を見るような感じがしました。ですからここに教会名も代表者名も書きませんが、ひっそりとしかし確実に40年以上もその思想と信仰を伝えておられる集団があると言うことを知り、さわやかな気持ちで長崎空港から帰ってきました。主に感謝!
2013年4月21日(日)牧師 國枝欣一
私達は同じことを経験しても正反対の理解をすることがまま起こります。後で同じことに出会ったのだから同じような感想を持っているだろうと思うとあまりの違いに驚かされることがあります。こうしたことが起こるためには様々な原因が考えられますが、ここではスピリチュアルな観点から考えてみたく思います。
心理学的には その人の過去の経験があってそれを下に事態を観察するので、その事態に関する感想はいわば鏡に映した自分を見るようなものだといいます。スピリチュアル・霊的な観点では人は肉体の中にいるとき、本人はそれと自覚できないが常に霊と交わっており、霊から影響を常に受けているといいます。
ですから同じ事態に直面しても、彼なり彼女なりがどんな霊と常日頃から交わっているかによってその事態の解釈が違ってくるのだと言うわけです。私達はクリスト教徒ですからどんな天使と交わっているか、どんな悪魔と付き合っているかと考えるわけです。天使を通して私達は主から流れ込んでくる天界の流入を受け、それが私たちの生活の場面場面に影響を与えているのです。人間は学ぶことによって天使の持っている知識に匹敵するほどの知識を持つことは努力すれば可能です。しかしその知識がこの場面で大切かどうかを決めるのはその人の愛の傾向です。
ということになると私たちの愛をどのように育むかと言うことがとても重要になってきます。ですから同じ経験をしても人によってまる反対の結果が出てくると言うこともその人がどのような愛の中に生きているかと言うことの結果なのです。愛を育むことはとても難しいことです。知識で育てることは出来ないからです。日々の生活の中で私の意図や願望欲求と言うものがどこから出て来ているのか見つめることです。その時はじめて悪しき愛から離れられます。そして、主から天界を通して流れ込んでくる愛を受けることが出来るようになります。
2013年4月14日(日)牧師 國枝欣一
先週、ホームページの威力を感じさせられる場面を二回経験させられました。一度目は本日洗礼を受ける佐藤寿子さんの例です。二番目は入門講座の参加者たちでした。佐藤さんは30年も前に新教会の教えを学び既成の教会の礼拝に参加していながら新教会の信仰を維持してこられた方です。洗礼を今行っている教会の牧師さんに勧められてやっぱり新教会で洗礼を受けたいと思ってネットサーフィンをして東京新教会を発見しました。入門講座では様々な職業の方が、単なる傾聴ではなくもっと深い援助をしたいと思って検索をかけて入門講座を見つけ出し、応募をしてこられました。発達障害、難病を患っておられる方も来ておられました。それぞれが魂の救いを求めているのです。
求めている人々、特に50代以下の人々は学校でコンピューター学んでいるので生活で必要な器具として大いに活用されていることがわかります。東京新教会では、高田悠さん、斉藤洋之さん、和田明咲子さんの協力でHPが毎週更新されています。しかしこれでいいのかと言う課題は残ります。魂の救いを求めている人々の飢えや渇きに応えられているかと考えるとまだまだ改善の余地はあるように感じます。
新教会の教えはこうした人々に応えることのできる力を持っていると思います。それを発信で来ているかどうか検討が必要かと思っています。情報格差ということが言われますが、コンピューターを扱えない人にも、扱える人にも福音を伝える術はもう在るのですからそれらをどのように使いこなすのかが問われているように思います。カトリックが母体になっている入門講座ですが、あそこにあるものは新教会という感じがします。本家の私たちがもっと真剣に考えねばと思わされた先週でした。
2013年4月7日(日)牧師 國枝欣一
親子であっても、仕事仲間であっても、趣味の仲間であっても、善意で言ったことが相手に間違って取られてしまい思わぬ誤解を受けると言うことは誰にもあることではないでしょうか。言った本人は予想外の反応にあわてます。時にはそれで人間関係が徹底的に悪くなってしまうこともあります。どうしてこういうことが起こるのか 考えてみたいと思います。
このような事態に直面した時、私達は自分はそんな意味で言っているのではないのに、悪意で受け取る相手が悪いと思ってしまいがちです。しかし過去と相手は変えられないという原則があります。とすると変えられるのは、現在、未来と自分です。誤解されている現在を変えるためには、相手に直接会い自分の真意を伝えることが考えられます。そのためには勇気とエネルギーが必要です。
ところがそうすると、相手が自己弁護していると非難してくることがあります。そうじゃないと言っても相手はそう思い込んでいるのでここで幾ら説明しても良い方向には行きません。論理で説明することは有効ではありません。相手は傷ついているのです。傷つくと言うことは論理ではなく感情です。相手が傷ついていると言うのは真実ですから先ずそれが本意ではないとしても受け入れることが肝要です。自分の怒りや落胆、悲しみなどを受け入れられた、理解されたと相手が感じてくれたら解決への糸口がつかめます。
もう一つは自分の何が相手を誤解させたか振り返ることです。これは一人では難しいこともあります。その場合には他の誰かに話を聴いてもらうことです。自己弁護したがる自分が常にいます。それを抑えて他の人の言葉を聴くとき、しばしば自分の気づいていない自分の言動が誤解を招いていると言うことに気づかされます。その場面では主が確実に働いて下さっていることを感じます。同時に「我」をなかなか手放せない罪深い自分をも発見します。
2013年3月31日(日)牧師 國枝欣一
自分が気にしていることは自分の愛の傾向を示しています。若者が恋に悩むのは相手を愛しているからです。これは誰でもわかります。お昼になって牡蠣フライが食べたいと思うことはその人が蠣を好んでいることを示します。妻が夫と上手くいかないと悩むことは上手くいかないということへの注目度が高いと言うことを示しています。夫が妻に不満を持つならばその不満の種をいつも注意していると言うことを示しています。友達と上手くいかないで悩んでいる時その人は上手くいかないことをいつも気にしているのです。そこに注目している{私}がいるのです。
それらはみなその人の愛の傾向、情愛を示しています。情愛は意識ですからその人を苦しめるのはその対象(人、物、事柄など)ではなく、その人の意識だと言うことがわかります。意識だと言うことはその人の愛の傾向を示しているので、その人の愛の傾向がその人を苦しめると言うことになります。この苦しみから脱却する修行が座禅であり、その結果が悟りを開くと言うことになります。
悟りを開くと言うことは簡単に言えば「在るものを在る」と認めることです。私達はこの「在るもの」をあると受け入れがたいのです。受け入れられなくさせているものがその人の愛の傾向、情愛であり、その人の意識です。ですから私たちを苦しめる様々なことは実はその相手ではなく私の意識なのです。その意識が変わることが視点を変えることです。
意地悪をされて傷ついていた人が、その人の意地悪の背景にまで視野が広がると、今までとは違ったものの見え方がします。その見え方は傷ついて苦しんでいたその人を解放します。それを私達は主からの流入、聖霊の働き、復活の主の支えと言ったりします。新教会の教義を知っていようといまいと、主は万人に働いてくださいます。私たちの意識の向く方向を変えるだけで、私達は主の臨在を実感できます。解放されます。難しい事ではないのです。
2013年3月24日(日)牧師 國枝欣一
来週は復活祭、イースターです。この時期になると私はボストンでの春を思い出します。庭には雪の間に所々黒い土が見え始めます。川辺の柳の枝が赤みを帯びてきます。庭にはクロッカスが咲き始めます。朝になると霧が発生することが多くなります。いのちが一斉に動いているのを感じます。日本ではふきのとうが芽を出してきて、私は毎年ふき味噌を作ります。これからは山椒の新芽が芽吹いてくるのでそれを摘み山椒味噌を作ります。春は味覚を通してもやってきます。
冬の寒さの中でふきのとうが固い芽を出してきます。寒さの中では何日も何日も固い皮で覆われた芽は動きません。山椒も固いとげのような芽を動かしません。でも時が来るとふきはむくむくと大きくなり始めます。その成長の度合いは目を見張るほどです。山椒の芽も同じで小さな緑の葉を出し始めると1日1日と変化してゆきます。
教会の庭にも一定のリズムで花が咲きます。その順序は毎年同じです。山茶花が咲き、紅梅が咲き、椿が咲き、白梅が咲いて、山吹が咲きます。そこに神の働き、摂理を見ます。いのちの再生、復活を見ます。忙しさに心を奪われているとそうしたことに気づきませんし、主が共に歩んでくださっていることに気づきません。
相応と言う考え方を習慣的に出来るようになると主の存在を身近に感じられます。自然界と霊界とは相応によって繋がっていると言うのがスウェーデンボルグの教えです。今年は桜がもう満開に近いです。春を充分堪能しながら主の働きに触れてみたいものです。日本は地政学的にも恵まれていて神の働きをその気になればいたるところで見られるとても良いところに私達は置かれていると感じます。大いにこの季節を楽しみましょう。
2013年3月17日(日)牧師 國枝欣一
再来週はいよいよ復活祭イースターです。主は三度も自分は困難に出会い、逮捕されて、挙句の果てに殺されて、三日目に復活されるとお弟子たちに話されました。でもご自分の近くにいるお弟子たちさえその真意を理解できませんでした。最も近くいる人さえ理解してくれない状況、それは夫が妻の苦しみを理解しない、職場で上司や同僚が自分の真意を理解してくれない、ご近所が我が家の事情を温かい気持ちで見守ってくれていない状況における私の置かれた状態と、実は重なることではないでしょうか。
このように考えてみると主の死と復活ということがすごく身近なこととなってきます。先週ご自分が重い病に陥った経験を話してくださったご夫人にお会いしました。家族は自分の悶々とした気持ちをわかってくれない。将来に不安を持っていることを分かち合えない。そんなことを話すと家族はすぐ話題を変えてそうした話をしたがらない。皆善意でそういってくれているのは解っていたけれど理解されない孤独の中にいて辛かったと話してくださいました。
しかしここで話は終わりではありませんでした。「でもね、」といって一呼吸置いて、「これでイエス様の本当の友達になれたって思ったのよ。」と言われました。その理由は「『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ、わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのか』、わたしはイエス様とやっと同じ気持ちになれてうれしかったの。」というのです。
それを頭の理解ではなく、本当に実感したのだろうなとわかる表情で話されました。重い病と理解されないと言う絶望感、孤独感の中にあって、主と出会ったのです。主はどんな時にも近くに居てくださる。自分の心さえ開けば主は私たちの所へ入って来て下さる。あらためてそうしたことを感じさせてもらえる良い出会いでした。彼女は健康を回復されて今は介護職の仕事に関わっておられます。
2013年3月10日(日)牧師 國枝欣一
コンピューターができて私たちの生活は大きく変わりました。わたしのようなアナログ人間でもコンピューターなしでは生活できない程です。この礼拝のプログラムもコンピューターがあって可能な産物です。わたしの子供のころはご飯を炊くのにかまどでマキを燃やしながらお釜で炊きました。その結果キャンプをして飯ごうでご飯を炊くのも上手かったです。今は炊飯器がすべてを調整してくれます。1合の米を炊くには鍋で炊くほうが早く簡単です。しかし40代のお母さんにはこがさないでおいしく炊ける技術はありません。
科学の進歩は 私たちの生活を便利にしてくれましたが、機械を扱う私達は不器用にどんどんなって行きます。明日は震災から2年目ですが、電気が使えないガスが使えないとなると都会では特にお手上げです。東日本大震災で孤立した地域がいくつもありましたが、町村合併で大きくなった町ほど混乱が大きく、合併を拒んだ入り、地政学的、経済的に合併が困難であった地域ほど震災に強かったという報告がありました。
そこには強固なコミュニティーがあり、老人の知恵と経験がありました。その結果何日も孤立していてもそうした部落は安定度が高かったといわれています。東京のような大都市で震災が起きたらどうなるでしょうか。他の地域に比して圧倒的に便利に出来ている地域ですが、人々のつながりは薄く、コンピューター制御された様々な機器によって成り立っています。老人の知恵や経験が生かされるようには出来ていません。
今年度教会では震災計画が話し合われましたが、それをもう一歩進めて自らの教会の機能を維持するだけでなく地域にどのように奉仕できるのか考えを進められると良いと思います。主への愛と隣人愛を具体化するために小さな教会として何が出来、何が主から与えられているのかもう一度わたしたちを点検したいと思います。新たなる使命がそこから見えて来るように思います。主よみ心を聴く耳を与えてください。僕は聞きます。
2013年3月3日(日)牧師 國枝欣一
教会の庭は春になると紅梅が先ず咲き始めます。今は紅梅が満開です。そして3月1日に春一番が吹きました。水槽のメダカは卵を産み始めています。<いのち>の再生の時です。カトリックにはイエスの道行きという施設があります。広い敷地を持つ教会は敷地内に主の復活までの過程を絵にして道の途中に掲げています。礼拝堂の柱に主のそれぞれの試練が描かれている場合もありますし、アラビヤ数字で示されていることもあります。今週は受難節の第3受難週なので、カトリックの神父さんはその柱の前に行って祈りを奉げた後にミサを始めます。
私たちの教会をはじめプロテスタントの教会にはそうしたものはありません。私たちも自分達の信仰を成長させるために取り入れても良いと私は考えていますが、その理由はみことばが視覚化されて理解しやすいということと、そこから内的な意味を把握しやすいという側面があるからです。絵を見て文字上の意味はこうなのだと理解した上で、そこから内的な意味を探っていくことは充分に可能だと考えられるからです。
私達はスウェーデンボルグの著作を手引きにしながらその内的な意味を把握していきます。その過程で知的にのみ理解して、結果としてはスウェーデンボルグの意図から外れて、知的に理解することと信仰を混同してしまうことが頻繁に起こっているように感ずるのです。それが私たちの陥りがちなところです。
イースターを前に私達は特に主の試練と関連させながら、私たちの中にある悪に注目して、そこから離れる努力が必要です。あたかも自分自身でするように一生懸命に自身の悪を見出すときに、主からの流入が働くというのがスウェーデンボルグ教えです。みことばを読み霊的な意味を把握して自らを省みる時に、主が働いてくださいます。だから困難と思えるような課題にも私達は直面できます。この期間それぞれの人生を振り返ってみませんか。
2013年2月24日(日)牧師 國枝欣一
気づきという言葉は主に心理学の分野で多く使われる言葉ですが、気づきのレベルは様々です。深いレベルでの気づきは心理のレベルを超えて宗教的な霊的なレベルにまで達します。トランスパーソナル心理学の分野は現在のところまだ玉石混交といわれますが、それでも宗教の教えと重なるレベルまで来ています。
先週、聖霊によるバプテスマを私たちの人生の中で繰り返し受ける必要性をこの欄に書きました。聖霊によるバプテスマは私たちの深い所で起きる人生を根底から作り変えてしまうような経験です。それは知的な理解を超えて腹の底から突き動かされるような体験です。それは学校で算数を学ぶように、習熟することによってだんだん解って来るようなことではなく、突然襲ってきます。
パウロの体験した回心はその典型的なものですが、私たちにはパウロの回心のようなことはなかなか起きるわけには行きませんが、当たり前と思って来たことの中に主の働きを感じられ、それは恵みなのだと感謝できる時に、私達は聖霊のバプテスマを受けることになります。それは私たちの思考の硬直化を破壊することであり、生活の柔軟さを取り戻すことでもあります。
思考の硬直化は老人特有のものですが、それは老人の占有物ではなく、年齢に関係なく「我」に固執することによって生じます。この「我」を手放し、主に私を委ねる時、はじめて思考の硬直化から解放されます。とは言うもののこれを自分のこととして取り組むと、「我」を手放せないでいる自分がいて、なかなか自由になれません。自分の中にある深いものに気づけは気づくほど任せ委ねられていない自分を発見し、途方にくれるような体験をします。「主よ、来たりませ!」と願って止みません。
2013年2月17日(日)牧師 國枝欣一
私たちの新教会は聖典ではない聖書の箇所を読むことが少ないと思います。しかし内的な意味を持たないといってどうでも良い文書ということにはなりません。やはり信仰の先達が書き残したものとして学ぶところが沢山ありますし、考えさせられることが多々あります。
新教会に属する私達は聖書の内的な意味をスウェーデンボルグの著作を手引きに把握することができますが、他の人々はパウロ書簡などを通さないと信仰の中核部分を把握することが難しいと思います。
先週は 預言、異言、聖霊によるバプテスマに関するテキストを3冊ほど読みました。聖霊によるバプテスマは私たちの霊的成長には欠くことのできないものですが、新教会の信仰があまりにも知的になり、著作に詳しくなることが信仰の成長のような勘違いが時々起こっているような事態に接し、コリント人への手紙などパウロの書簡を読んでみました。
読んでみると初代教会の人々は使徒行伝のペンテコステの日にお弟子たちが聖霊を受けただけでなく、いろいろな場面でいろいろな国の人が聖霊のバプテスマを受けていることが分かります。
バプテスマを一度受けることは新教会への入門であり、天使の仲間になることですが、私達は生涯をかけて再生を繰り返していかねばなりません。そのためには時に聖霊のバプテスマを受け、腹の底から突き動かされるような経験をすることが大切ということになります。それは知的な理解を超えている事実です。復活祭、イースターを控えて、主を求め、主の働きが私たちの周りに満ち満ちていることに気付き、深い感謝に飲み込まれるような体験をしたいものです。自らを省み、主を強烈に求める生活を私たちのものとしたいです。
2013年2月10日(日)牧師 國枝欣一
原発を廃止するか存続させるか国の方針がはっきりしません。福島原発事故の処理もまだまだ10年という単位で続けられるようです。事故で汚染された廃棄物の行き先も決まりません。政府は経済対策で公共投資を大きく組み景気浮揚につなげようとしています。国の借金は膨れ上がりその返済に多額のお金が使われています。
原発事故の後処理にしても、国の大きな借金にしても皆我々の子や孫に付回して行きます。高齢化社会にますますなり、若い人たちの負担は重くなります。私たちの快適さを求める姿勢が子や孫への付け回しの負担をますます大きなものにして行きます。先日麻生副総理が会議で発言した早くさっぱり死にたいと言ったことがマスコミで取り上げられ、非難されました。延命治療は止めて欲しいと言ったのだと思いますが、そうしたことも自由に語れなくなる社会というのは危険だと思います。国の借金にしても、原発廃棄物の処理にしてもそのマイナス面に関して自由に検討したうえでどうするのか決められる社会が大切だと思います。
私は子供たちに胃瘻(いろう)はしないこと、延命治療もしないことを頼みました。食べられなくなって自然に死ぬことが良いと思うからです。また私達は現世だけでなく来世があることを知っています。そして人間は霊でありその霊は永遠であることを知っているので寿命であることを大切にしたく思います。
こう考えると子供や孫、ひ孫が善なる生活をしにくくなるような私たちの負の財産を付け回すことは極力避けたく思います。今の自分の生活が良ければ目を瞑る、変だと思いつつ、責任逃れのための沈黙することを拒否する姿勢を持ちたく思います。信仰は生活することという言葉がありますが、生活の中に善と真理を満たすことで、必然的にこれらの問題に触れることになります。何が真実なのか見極める目を持ちたく思います。
2013年2月3日(日)牧師 國枝欣一
原発を廃止するか存続させるか国の方針がはっきりしません。福島原発事故の処理もまだまだ10年という単位で続けられるようです。事故で汚染された廃棄物の行き先も決まりません。政府は経済対策で公共投資を大きく組み景気浮揚につなげようとしています。国の借金は膨れ上がりその返済に多額のお金が使われています。
原発事故の後処理にしても、国の大きな借金にしても皆我々の子や孫に付回して行きます。高齢化社会にますますなり、若い人たちの負担は重くなります。私たちの快適さを求める姿勢が子や孫への付け回しの負担をますます大きなものにして行きます。先日麻生副総理が会議で発言した早くさっぱり死にたいと言ったことがマスコミで取り上げられ、非難されました。延命治療は止めて欲しいと言ったのだと思いますが、そうしたことも自由に語れなくなる社会というのは危険だと思います。国の借金にしても、原発廃棄物の処理にしてもそのマイナス面に関して自由に検討したうえでどうするのか決められる社会が大切だと思います。
私は子供たちに胃瘻(いろう)はしないこと、延命治療もしないことを頼みました。食べられなくなって自然に死ぬことが良いと思うからです。また私達は現世だけでなく来世があることを知っています。そして人間は霊でありその霊は永遠であることを知っているので寿命であることを大切にしたく思います。
こう考えると子供や孫、ひ孫が善なる生活をしにくくなるような私たちの負の財産を付け回すことは極力避けたく思います。今の自分の生活が良ければ目を瞑る、変だと思いつつ、責任逃れのための沈黙することを拒否する姿勢を持ちたく思います。信仰は生活することという言葉がありますが、生活の中に善と真理を満たすことで、必然的にこれらの問題に触れることになります。何が真実なのか見極める目を持ちたく思います。
2013年1月27日(日)牧師 國枝欣一
先週金曜日、その日の内に仕上げなければならない仕事が7つありました。あれもこれもしなくてはならないと考えるだけで圧迫感とあせりを感じました。圧迫感は気持ちを重くします。焦りによってあちらこちらに気が散り、集中できません。結果としてどれもこれも完結せず結局何も終わらないということになりそうでした。体も疲れてきます。頭もボーっとしてきました。
そこで、今日しなければならない仕事を書き出しました。相手のある仕事、重要な仕事を考え優先順位を付け、その上で2時間ほど寝ました。起きて出会った聖句が「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイ5:11)というものでした。私自身は迫害されていたり、悪口を浴びせかけられているわけではありませんが、沢山の仕事だけでなく、その背後にあるもの、私に影響を与えているものがあることに気づかされました。
それらは一朝一夕に解決できる課題ではありません。それらを常に抱えつつ解決できるものは解決し、出来ない課題に関してはそれを抱えながら責任を担っていくこと、その道をあきらめないで探っていくことが、改めて大切であることを教えられました。「喜びなさい。大いに喜びなさい。」という山上の垂訓が心の中にストンと落ちるように感じられた一瞬でした。
山積みの仕事が全部出来上がったわけではありません。環境が変わったわけでもありません、仕事量が減ったわけでもありませんが、何よりも変わったのは、そこに関わる私自身の取り組み方が変わりました。「大いに喜びなさい。」という勧めが、わたしにエネルギーを与えてくれました。「安らかに信頼していることにこそ力がある。」(イザヤ30:15) 苦しんだり、悩んだりしている時はどこかで自分の力に頼っていてそれより大いなる者から離れているなと感じさせられた日でした。ありがたいことのあった日でした。
2013年1月20日(日)牧師 國枝欣一
自分の人生に満足しきっている人というのは案外少ないのではないでしょうか。私たちの多くは自分が抱えている困難を外部の人間に話すということをしないので、他の人々がどんな悩みや困難を抱えているか知らないでいます。多くの人は少年少女期や青年期に希望や夢を抱えているものです。しかし長ずるに従って現実と折り合いをつけていくものです。現実と折り合いをつけて行くという事は、繰り返し挫折することでもあります。でもそれを話し聞き合うということはめったに起こりません。
暗い話を聴くと暗くなる、辛い話をするとつらなくなるという常識を私達は持っています。だから人の集まりや、人との関わりの中で私達は自然にそうした話をしなくなります。人生の末期になると自分の不安や死への恐怖を持ちます。死について沢山の事を知りたいのに、周りの人々は「まだまだ生きるのだから」といってそうしたことを話させてくれません。結果として多くの死に行く人々は課題を解決できないまま旅立って行かれるということが起こっています。
常識は時に課題解決のためには大きな障害となることがあります。上記二つの例は典型的なものですがその結果、人は本音で語り合うことを忘れてしまい、周囲の人と関係が切れて孤独を感じます。旅立って行かれる人も自分の気持ちを語れないままはっきりさせたいことを未解決なまま旅立って行かれる人が結構多くいます。
話を聴いてもらえると実は安心と平安を与えられ、そこに新しい出会いが始まり、満足感を味わえます。互いに本物の自分でいられる心地良さを味わえます。それは命の源に触れることでもあります。本物の自分になり、命の根源に触れることができた時、私達は自我から自由になって委ねるということができるようになります。様々な課題、困難を抱えていることは悪いことではありません。それは霊的に成長するための大切な課題なのです。
2013年1月13日(日)牧師 国枝欽一
ヘルマンハープみどりの会のメンバーの大部分は青山学院大学のキリスト教学生青年会(SCA)の出身者たちです。学生時代から活動的なクリスチャンで、江東区のありの町や、筑豊の炭住でボランティアをしたり、地方の教会を夏休みなどに援助をしていました。彼らは皆現在も教会の中心的なメンバーです。昨年から東京新教会の礼拝を手伝ってくれていますが、様々なところで奉仕もしています。
ヘルマンハープは健常者と障害者のバリアフリーを意図して造られた楽器です。日本に導入されてまだ日は浅いようですが、主婦を中心としてさまざまなグループが全国で活動しているようです。そんな中にあって男性演奏者のいるグループは稀有のようです。また全員が定年をとっくに過ぎている年齢なので、いつでも要望に応じられるという点でも特別なグループのようです。ヘルマンハープの演奏会はもちろんですが、病院や様々な施設、教会での演奏など出番も年間20回はくだらないと言います。
メンバーは北は青森、南は神戸といった具合でバラバラですが、それでも合同の練習は欠かせません。東京新教会も練習会場の一つですが、そんな時みていると、練習は朝10時前から始まって夜8時過ぎまでぶっ通しにしています。70才を目前にした人々の集まりとは信じられないバイタリティーです。
現役時代は、教員、自治体職員、病院職員、保母、大手会社等の幹部だった人々ですが、そのボランティアスピリットは青年時代に培われたものであるような気がします。退職後もこうした活動を通して多くの人々と関わりを持っています。昨年の夏には東京新教会の庭の木々の剪定と掃除もしてくれました。自分の趣味としてだけではなく、それを社会に還元するその企画力と団結力と行動力に頭が下がります。主と共に、主のために働くグループです。
2012年12月23日(日)牧師 國枝欣一
先週仙台「愛光会」の瀬上正仁さんから小包が届きました。中には森有礼、田中正造、新井奥邃、勝又正三関連の資料がぎっしり詰まっていました。1週間でほとんど読みました。瀬上さんは整形外科の医師ですが、勝又正三のお弟子さんでもあります。上述の人々は皆スウェーデンボージャンですが、私たち東京新教会の人々とは大きく違います。
東京新教会は皆アメリカのコンベンションの神学校で学んできた牧師たちによって導かれているものたちの集まりですが、森有礼と新井奥邃は、アメリカでT.Lハリスの新生同胞団というコミュニティーでスウェーデンボルグ神学を学んでいます。田中正造は足尾銅山鉱毒事件に関わったクリスチャンですが、晩年新井奥邃の影響を得ています。勝又正三は修験道の修行をした人で仏教と神道を学びスウェーデンボルグ神学と融合させた人です。
明治生まれのそして士族出身の人々は、例外なく儒教をまなんでいました。孔子孟子をそらんじていました。その人々が幼少のころから親しんできた儒教や仏教、神道とスウェーデンボルグ神学を結びつけるということは不思議なことではありません。それらを徹底して融合することは彼らの信仰を生きたものとしました。
21世紀に生きる私達は彼らの生活化した信仰から大いに学ぶ必要があります。それぞれの人は命を賭けるようにして信仰を生活化しています。田中正造の晩年に大きな影響を与えた新井奥邃は田中正造の素直さに打たれています。学んだことを即実行し生活を変えたからです。信仰を生きること、それは容易なことではありません。しかしその中で上述の人々はスウェーデンボルグの指し示している霊的な高みへと上っていった人々です。私にとってこれらの資料は大きなクリスマスプレゼントとなりました。私の魂が燃えるような思いをしました。
2012年12月16日(日)牧師 國枝欣一
今まで何度か話したり書いたりしていることですが、人間関係において私達は常に四つの領域に関わっています。それらは①自分に関して他人も自分も知っている領域、自分が公にしている領域。②自分は自分に関して知っているけれど公にしていない領域、秘密の領域。③自分のことであるけれど他人は知っているのに自分では気づいていない領域。いわば癖になってしまった領域。④自分のことでありながら自分自身も他人も知らない領域。いわば神様だけが知っている領域です。それぞれの領域は人によって大きかったり小さかったりし、それによって生きにくくなったり、孤独になったり、必要な時に助けが得られやすくなったりします。
信頼感がないと 不安が増してきます。ですから②の秘密の領域が大きくなります。人間関係で失敗を繰り返す人は③癖の領域が大きいのかもしれません。これは心理学の理論の一つですが、信仰という観点から見ると、主を愛し、隣人を愛する人は①の領域が広くなります。主を信頼することは常に人を信頼することと繋がってくるからです。信仰は生活であるということはそういうことです。主は信頼するけれど人は信じられないという時は何か解決しなければならない自分自身の課題があると思ったらよいと思います。
③の癖になっている領域が私を困難にしている可能性があります。それは他人を通して働く神が私たちに解決すべきことを知らせてくれる領域でもあります。相手のちょっとした反応や言葉が「私」の癖を気づかせてくれます。「私」をいらだてる人は実はイエスさまなのかもしれません。そう思うと私達は自分の言動に少し余裕と落ち着きが出てくるかもしれません。とにかく③の領域に深く気づいていく作業は私たちがこの世を旅立つ寸前まで続く作業のような気がします。今はアドベント、一人一人の教会に純真無垢な主をお招きする準備をしたいものです。
2012年12月9日(日)牧師 國枝欣一
病気を生きる。障害を生きる。困難を生きる。苦難を生きるという言葉を耳にしたことはないでしょうか。それぞれの困難を生きるということはどういうことなのでしょうか。聖書にはそれの最たるものが書かれています。マリアに対する受胎告知(ルカ1:26-38)がそれです。当時の世界では死刑に相当する困難に遭遇することになります。マリアは「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」とこの困難を受け入れます。それは想像を絶するような困難です。私達は今日健康であっても、幸せであっても明日には厳しい条件の下に置かれるかもしれません。その「時」は誰も知ることはできません。それを生きると言うことは簡単ですが、いざそれが現実になったら、マリアのようにはできるものではありません。そのマリアにしても現実には様々なs壁にぶつかり、日々が苦難の連続だったでしょう。それを生きることができたのは主に対する絶対的な信頼です。
ちょっと立ち止まって私たちの生活の中での困難を書き出して見ましょう。そうした困難は10や15はすぐ書き出せるのではないでしょうか。仕事が上手くいかない、家族がギクシャクしている、○○が必要なのにない、何でこんな病気になったのだろう等々と言った具合です。それらを自分以外の他人のせいにしたり、社会や時代のせいにしたりしていないでしょうか。
このようにしていると、私達はその困難から解放されることはありません。病気を生きる。障害を生きる。困難を生きる。苦難を生きるということはできません。それらからの解放を願う時には知性を働かせることです。知性を働かせ、感情の世界に陥らないように理性を使うことです。理性を使うことを意志し、理性を使って知性を働かせることになります。そうすると様々な解決への道が見出せることに繋がりますし、その時点では見いだせなくても、今をどのように生きたら良いのかが見えて来るということを学びました。やってみようと思いました。
2012年12月2日(日)牧師 國枝欣一
感謝する心を持つ。「感謝する」はそんなに難しいこととは思えません。現実にしていると思いがちです。物をいただいた時、他人から何かをしてもらった時、ありがとうの一言と感謝の気持ちがわいてきます。ところがそのようなことは当たり前と考えている時は感謝の気持ちはわいてきませんし、「ありがとう」の言葉も出てきません。
ということは、感謝な心の持ち主は、何が起こっても特別なことと思っていることになります。特別なことだから有り難い、文字通りそのようなことが起こることが難しいと感じていることになります。今日まで生かされてきたことをありがたいと感じる、3度の食事を食べられることをありがたいと思う、1日を終えお風呂には入れてありがたいと感る、子供を与えられてありがたいなどと感じられることによって感謝が湧いてきて、心が平和になっていきます。
一方、全てのことが当たり前となると、現実を不満なことととらえて、あれがほしいこれがほしいということが起こってきます。今子供の間で流行のカードゲームなどは、もっと強いカードがほしい、あれとこれを揃えたい、望みのものが手に入っても次を求めます。大人も同じで望みの車を手に入れて、一時は満足しても、新車が出るとまた次の車を欲しくなります。人間の欲望には限りがありません。
これらはみんな物質の世界のことです。霊的な世界のあることを忘れている結果として起こることです。感謝な心を育てることはそのことを意図しなくても<いのち>を大切にすることに繋がり、<いのち>を考えることは感謝する心を持つことであり、物質の世界と霊の世界が共に有りあることに気づく入り口に立つことに繋がると思います。どんなことが起こっても感謝して受け入れていくときに、私たちには平安が与えられるとつくづく感じます。今週もまたどれほどたくさん感謝の念を持てるかチェックしてみたく思います。
2012年11月25日(日)牧師 國枝欣一
11月22日は語呂合わせで『いい夫婦の日』ということでラジオは1日中いい夫婦に関する話題で占められていました。80%の夫婦が『自分達は仲の良い夫婦だ』と思っているようです。ところが現在の日本人の結婚の30%は離婚しているというデーターもあります。戦後1960年代までは離婚は減少していましたが、60年代後半になると離婚は増加し、離婚率は今日に至るまで上がり続けています。今では3,4組に1組が離婚しているということになります。
アメリカでは45歳以上のカップルの45%は離婚しているそうです。ほぼ2組に1組が離婚しているということになります。それほど離婚はごく日常的なことだともいえます。日本はそれと比べるとまだ少ないといえます。また世界の中では離婚の多さでは22番目と言われています。
聖書では結婚の規定においては、マタイ福音書19:6で「二人はもはや別々ではなく一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」とあります。ここからカトリックの離婚の禁止規定が出てきます。それはある意味で正しいと思います。なぜならば結婚とはお互いがお互いを全体的に受け入れることだからです。
しかし現実には慰謝料だ子供の養育費だなどという面倒なことも要らないから離婚したいということも起こるでしょう。霊的な意味においては、「結婚愛の徳性と力の起源・・・は夫婦の精神的類似性と同心一致からでる」(CL112)、「善と真理は、天使や人間のもとでは結びついていますが、・・・善と真理は二つではなく一つです。・・・ここに天界から見た結婚がえがかれています。」(HH372)ということができます。80%のカップルがこの精神的類似性や同心一致から感じて『いい夫婦』と感じているのでしょう。しかしそれらを感じるために多くのカップルが相手に配慮し、相手に合わせていることも忘れてはならないところだと思います。お互いに奉仕しあう関係を作っていく、それは教会形成にとっても大切なことだと思います。
2012年11月18日(日)牧師 國枝欣一
地上に住んでいる私たちは、言語が違い、文化が違い、風土が違う環境の中で生活をしています。従って異なった環境の中で育った人々が一緒の生活をする時には様々な困難が伴います。修道会で生活をする神父さんたちは当然のことですが同じ信仰を持った人々の集団です。ところがどうしても同じ文化圏で育った同じ母語の人同士で集まる傾向が在るということを聞いたことがあります。それ位異文化理解は難しいという ことでもあるのでしょう。
ハワイは様々な民族が溶け合っている地域だと思います。私の学びも9人が8カ国から来ておこなわれました。生活面でも南太平洋からの医学生、アフリカ、アメリカ本土、インドネシアと多彩でした。こうなると生活の様々な場面で!?っといったことが起こります。習慣といったものは習慣ですから無意識な行為です。そこに思い違いや、感情の軋轢が起こることがあります。地上で生活しているとお互い努力しないと分かり合うということができません。
天界の天使には様々な民族出身の天使がいのだろうなと容易に想像できます。しかし天使同士で文化の軋轢があるという話は聞いたことが在りません。言語の違いが在るなどという話も聞いたことがありません。お互いが支えあい、互いに社会を作っているということは読んで知っていても社会の格差などということにも出会ったことがありません。
では地上における天国に一番近い共通言語とは何かと考えてみると、それは音楽のように思います。バッハ、モーツアルトはもちろんビートルズの曲まで、民族を超えて人々を魅了します。音楽によって人は安らぎを得たり、癒されたり、元気付けられたりします。演奏していても全体のハーモニーを考えながら演奏します。このハーモニーという言葉から天国の香りを感じます。それぞれの楽器の個性を尊重して、その個性を全体のために使うとき、全体としてもまとまりがきちんとなる。日本人はそれを古来から「和を持って尊しとなす」と言ったのだと納得。
2012年11月11日(日)牧師 國枝欣一
お互いに深く知り合い大切な存在と分かっているのに、ちょっとしたきっかけで決定的に関係が壊れてしまうと言うことが人生では時に起こるものです。事実を受け入れることは困難が伴いますが、起こったことを受け入れ、それを感謝する心の必要性も感じます。こうしたことには自己弁護、自己憐憫などがすぐついてきますが、そこから離れ、み旨として感謝して受け入れるとしたら・・・と考えてみると、先ず過去の同じような経験が浮かんできました。内容はそれぞれ違いますが共通しているのは、苦い思い出で思い出したくない経験です。
相手に批判的になったり、攻撃的になることを止めて、その事実の苦さを味わいながら、起こったことを見つめてゆくと、聴けていない自分を見出します。自分の利害や正当性が損なわれようとする事態になると、怒りを抑え論理的になろうとする傾向があることをも、見出しました。自分に関わりの無い話ですと相手に寄り添って聴くということができるようになって来ましたが、予期しない攻撃や批判に出くわしたり、自分に関係している場合は寄り添って聴くということが難しくなります。そして私の感じている怒りのもとは自分自身の解釈だと言うことです。相手の問題ではなく自分の中にあるものなのです。それに対して怒っている自分も発見できました。
決定的に関係が切れてしまうような事態を感謝して受け入れること、すなわちこの状況は主が与えてくださっていると感じられるようになれると、事態は変化します。自分の固執している邪悪な価値観から離れるようになれることです。これは今まで自覚できませんでしたが、うすうす感じていたことでもあったと言うことも発見できました。感謝する心と言うのは天界的愛を自分の中に育てることです。怒りがあるのにそれを直視しないで論理的理性的態度をとることは知識の誤用です。その態度は地獄的なものだと感じました。すべてのことを主に感謝できるようになりたいと感じたら自分の心が平静になりました。ありがたいことです。
2012年11月4日(日)牧師 國枝欣一
宗教には教義があります。教義の無い宗教は神道くらいでしょうか。長い期間にわたって伝えられてきた宗教には先達のたくさんの知恵が蓄積されており、安全で効率よく目的とする境地に到達できるように導かれます。
瞑想や断食はさまざまな宗教に取り入れられていますが、これらは厳密には宗教ではありません。しかし「普遍宗教的なもの」といっても良いのかと思います。そこにはキリスト教にも仏教にヒンドゥー教にも通ずるものがあります。インドやネパール、チベットなどで盛んのようです。瞑想や断食には知恵と経験をつんだ的確な指導者が必要だといわれています。
宗教の歴史の中には、自分の信仰こそ一番で他の宗教は救われない、場合によっては邪教だなどといって戦争になったことがたくさんあります。自分の教義についても相手の教義についても教義を思い込むことでこうしたことが起こります。
現代に生きる私たちは必要な情報入手しやすくなっています。他宗教に関することもすぐ手に入りますので私たちも周りの教会や宗教をもっともっと知ることが大切です。知ることで理解が深まりますが、実はそれだけでは足りません。必要なことは直接出会って体験してみることです。
平和で天国的な心で相手に尊敬心をもって接すれば相手がよく見えてきます。瞑想は自分の心を整えることでよく自分自身、そして周りが良く見えるようになるための修行でしょう。これらが良く見えてくるためにその存在をしっかりと支えている実体――それを神、仏、絶対なるもの、ブラフマン、ハイヤーセルフなど様々な言葉で表される存在――を体験できるのです。 私たちの神学は異なるものにやさしさを持った視点があります。それは私達の心が愛に満たされた天国的なものになり天国を目指して今を生きようとすることから出て来ています。
2012年10月21日(日)牧師 國枝欣一
先週はキッペス神父の代講で聖母病院を実習場所としたスピリチュアルケアの学びの講義を担当しました。毎朝2時間早く起きて教会に行き、車を置いて、豪徳寺から下落合まで通いました。久しぶりのラッシュ時の通勤です。この混雑の中で自分の居場所を確保することは難しいです。自らの力を抜き周りの動きに合わせながらそれに乗って動いていくと自然に自分の空間ができて最低限ですが、それなりに立っていられる場ができます。
そんな中で時々自分の居場所を確保するために肘でくっ付きあった人を押しのけ、お尻で他の人をその場所から追い出して自分のいる場を守ろうとする人がいます。「ああ、大変な思いをして何時も自分を守っている人なんだろうな。」と感じました。どんな顔をしている人なのか見たくなって少しその人から離れて顔を見てみました。お化粧も無く、肌も荒れていて生気がありません。 疲れているんだろうな、人生に怒りを感じているのかなと思いました。
ラッシュ時に 電車に乗ることは好きではありません。非人間化も感じます。しかし同時に見ず知らずの人がいてくれて自分が立つことを支えられていることも感じます。すると周りの人に感謝も感じます。そして私も誰かを支えていることに気づきます。
自分で立とうとすることは悪いことではありませんが、自分だけで立とうとすると大きな抵抗力を自ら招いてしまい、立つことにものすごく大きな力を使わらざるを得なくなります。自らを手放すことは人生で最後の私達の仕事のように思います。主にお任せする事を学ぶようにとラッシュを私に与え、懸命に自分で立とうとすればするほど立ちにくくなることを、自我の強い私に教えるため、キッペス神父の代講のチャンスを主は与えられたのだと思えたら、代講の大変さや、ラッシュのひと息も気にならなくなりました。
主は私達の様々な場面で働いてくださっていると改めて感じさせられる一週間でした。
2012年10月14日(日)牧師 國枝欣一
先週は金田静雄さんの紹介で「無手の法悦」大石順教著春秋社を読ませてもらいました。順教尼は昭和43年に80歳で亡くなった真言宗の尼さんです。この方の人生を振り返っていくと試練の先に平安があるということをつくづく感じさせられます。
順教さんはお寿司屋さんの長女として生まれ、11歳で踊りの師匠になるほどの才能の持ち主でした。さらに日本舞踊を極めるために廓の経営者のもとに養女として出され芸事に励みます。ところが養父の狂乱によって一家6人が惨殺され、ただ一人両腕を切り落とされながらも生き残りました。入院中から養父の裁判が始まりましたが、養父の罪が軽くならば何でもしますと養父の罪を赦し、裁判官を感激させます。
退院後、旅芸人として巡業を続けている時に旅館の庭に飼われていたカナリヤを見て、手の無いカナリヤは全てのことを口で行うのを見て独学で口に筆を含み文字と絵画を学び始めます。ある時お坊さんに得度をして尼になりたいと申し出ますが、結婚をしなさいと勧められます。15年間の結婚生活で一男一女をもうけますが協議離婚をして身体障害者婦女子の教育と収容を行い、昭和8年には得度を受けます。
他人から見ると順教尼の人生は壮絶な人生に見えますが、彼女は常に我を抑え任せることを実践してきたように思います。それは巡業の引退興行のときにはっきり現れています。三番叟を踊ることになるのですが手の無い順教は文楽の人形遣いに手をお願いします。しかし興行前日まで上手く行きません。寝付けない夜を悶々としていると踊りを指導してくれていた養父の声を聴きます。我を捨てて木偶になれ、人形遣いに全てを委ねよというものでした。
主に任せるとはこういうことなのだと改めて深く学ばされました。感謝です。
2012年10月7日(日)牧師 國枝欣一
10月7日に行われた堅信礼は東京新教会にとって20数年ぶりになるのではないでしょうか。堅信礼について少し説明をしたいと思います。私たちに新教会には幼児洗礼があります。(と言うことは教会の中には幼児洗礼を認めない教会があると言うことです。)幼児洗礼は両親の信仰によって受洗した者が、自らの信仰を表明して、聖餐式に陪餐する資格を得て、教会員としての完全な権利と義務を持つようになると言うことです。これが伝統的考え方です。
その聖書的根拠は使徒言行録8:14~17,19:1~7などがあげられています。使徒の時代以降、水の洗い(洗礼)と油を塗ること(塗油)と按手(司祭、牧師、神父が手を頭の上に置いて祝福すること)がみなキリスト者としての生活への加入に関連しており、結果として「罪の赦し」「教会への受け入れ」「永遠の命への招き」「政令を受ける準備ができること」に関連しています。歴史的には4世紀頃までには「洗礼」と「堅信礼」は区別されていたと言われています。
新教会のサクラメント(秘跡)は他のプロテスタント教会と同様に「洗礼」と「聖餐式」です。(カトリックと正教は異なっています)ということは、堅信礼はサクラメントには入っていないと言うことです。堅信礼を受ける人は必ず幼児洗礼を受けているので、その信仰の神秘な部分はすでに本人が意識するとしないに関わらず天界への霊気(スフェア)の中にいると言うことです。
日本の新教会ではまだまだ大人が天界への入門としての「洗礼」を受ける人がほとんどで、親から子へ、子から孫へと信仰が受け継がれて行く基盤が弱いのが現実です。洗礼と堅信礼が次々行われるような生き生きとした教会になりたいものです。堅信礼の準備をする中で祝福されていることを強く感じ、希望を与えられ、東京新教会の未来をよりはっきり描ける機会を与えられたと感じています。
2012年9月30日(日)牧師 國枝欣一
主のみ言葉を聞いても聞かない、行いの業を見ても認めないユダヤ教の祭司や律法学者、ファリサイ派の人々の話しが福音書の中に繰り返し出てきます。そして律法学者や祭司やファリサイ派は私でなくてよかったと思うことがしばしばあるのではないでしょうか。キリスト教徒でよかった。あんなに私は頑なではないと、密かに思ってほっとしている自分を見出してはいないでしょうか。 主の在世当時、このような人々は、社会で尊敬もされ重んじられ、実際に力を持っている人々でした。
しかしそれこそが私たちの陥りがちな危険な落とし穴だと思います。私たちは自分の耳に心地よいことしか聞きませんし、興味のあるものしか見ない傾向があるからです。自分の中にファリサイ派、律法学者、祭司の傾向を見出すことはある意味でつらい作業です。意識して注意深く見るか、心の奥深いところからの声を聴く習慣を持たないとなかなかできません。これは年齢、経験、男女、一切関係なく誰にも難しいことです。
何かをするという行為の背景には、動機や意図や欲求、願望と言ったものがあります。前述の辛い作業というのはこれらを意識化する難しさでもあり、また気がついた時には、自分では思ってもいなかったどす黒い悪魔的な思いがあったりするからです。嫌っていた親と同じことを自分の子供にしているなどということが良く起こります。
この様なことに気づくとショックでもありますが、それは主からの流入が天使を通して起こることによって与えられる恵みでもあります。気づけば同じような事態に直面した時に選択が働きます。自由選択の意志が働くと言うことは、主からよりたくさんの流入を与えられることでもあります。ですからどんな立場にあっても、謙虚でいることを通して、さまざまな人々の声に耳を傾け、それをもとにもう一度自分を振り返ること、それが真の信仰生活ではないでしょうか。
2012年9月23日(日)牧師 國枝欣一
私達が通常「モーセの十戒」と言っている戒めは、法律のように第1条、2条・・・と言うように書かれてはいません。「十戒」と言っていますが、もとのヘブル語では十の言葉と言うことであり、それがギリシャ語に訳されて「デカ」が十を意味し、「ロゴス」が言葉と言う意味から「デカロウグ」と言われます。それが英語になってTen Commadment(命令、戒め) と言われるようになりました。
ところが この「十の言葉」どのように区切って十とするかは教派によって異なります。東方正教会(ロシヤ正教、ギリシャ正教など)聖公会と多くのプロテスタント教会はただ一つの神を信ぜよと偶像を作ってはならないを二つに分けます。ところがカトリックとルーテル派はこれを一つと考え、最後の他人の家を貪ってはならないと、妻、男奴隷、女奴隷、牛、ロバを貪ってはならないを二つに考え合計十にしています。
スウェーデンボルグはルーテル派出身であり、自分の教派を改革しようとしていたので、十戒の分け方もルーテル派に倣って分けています。ルーテル派がカトリックと明確に違うところは、教会の聖伝を認めず聖書のみという聖書中心主義、信仰によってのみ救われると言う「信仰義認」と「万民祭司」(全信徒は祭司)に立っているということです。万民祭司と言うことは、聖職者だけが聖職についているということではなく全ての職業を天職ととらえ肯定したことです。
またカトリックの定めている秘跡は7つですが、洗礼と聖餐の二つのみを聖礼典としました。これは全プロテスタント教会受け入れています。以上のような違いがありますがそれをよく理解したうえで著作を読む必要があります。そうでないと著作をいくら読んでもスウェーデンボルグが指し示しているものを見失う危険があります。十戒もこうしたことを前提に著作から学ぶ必要があります。
2012年9月16日(日)牧師 國枝欣一
自由選択の意志と合理性は私たち人間に与えられている基本的な性質です。ところが本当にこの与えられている意志を自分の生活の中で使っているかと改めて自分の中身を見てみるとそうなっていない自分を発見します。ずっと自由に選択してきたと思っている人でも、よくよく自分の内面をチェックすると過去の経験に引っ張られて反応しているだけと言うこともあります。 これが本人の人生を豊かに、幸せにするものであれば幸いなことなのですが、同じ失敗を繰り返しているということも多々あります。
ところがやっている本人は同じ失敗とは感じていないことが多いようです。相手が悪い、事柄が間違っていると思うことが多いからです。こうしていると自分の問題点が見えてきません。主は姦淫の女がとらえられた場面で「罪を犯したことのない者が先ず、この女に石を投げなさい」と言われました。外に目を向けるのではなく内に向けなさいといわれているのです。
私たちは教義を知っていてもそれが知識に終わっていることが多いのではないでしょうか。知ってはいるけれど実行できていないと言うことです。これが冒涜だと言っているのはスウェーデンボルグです。知ってはいるけど実行で来ていないということに気づくことが、私達が冒涜から開放される大切なポイントです。
気づくことによって始めて自由になります。気づかないで同じことを繰り返すのは奴隷状態だと言うことです。与えられている自由選択の意志を十分使えるようにお互いに配慮しあい共に生きる時、天界の表象である教会はその機能を充分に発揮できるようになるのではないでしょうか。主が共にいてくださるから難しい課題であってもそれを実現できるという希望を与えられているように感じます。
2012年9月9日(日)牧師 國枝欣一
30数年前のことで申し訳ありません。津軽海峡をソ連の潜水艦が航行したことがあります。この報道に接した時の私自身の中に起こった反応に自分自身がすごく驚いたと言う経験があります。その反応と言うのは私の中のナショナリズムが沸き起こってきたのです。自分の家の庭に断りもなく入ってくる無礼な人間に対する感情と似てもいました。ソ連の潜水艦は報道によれば海峡の公海部分を通って太平洋側にぬけたとありました。
最近は、北方四島のロシアの実効支配が進んでいること、竹島の韓国大統領の訪問、尖閣列島の国有化の問題などわが国の国境の問題が騒がしくなっています。その度に政府の対応のまずさが批判されます。最近はこれらの地域の資源問題が絡み問題をよりいっそう複雑にしています。この様な問題がナショナリズムと結びつくと問題が余計危機的になります。
韓国では国内の政治的な背景があって竹島問題に火がつけられているようです。中国でも大使の車が襲われ日の丸が奪われました。中国の尖閣列島の問題は容易に国内問題への不満に変質する危険性もあって抗議運動が政府によって押さえ込まれているようです。韓国の問題など見ていると国民の目を国外に向けて内政問題から目をそらさせるために仕掛けられた工作というような報道もあります。
ロシアも韓国も、そして中国も日本にとって大切なパートナーです。この様な複雑かつ困難な問題にこそ愛と知恵が必要です。私たちの中には私がかってそうであったように悪しきナショナリズムが誰の中にもあり、うっかりするとすぐそこに火をつけられてしまう可能性があります。「我らを試みに合わせず悪より救い出したまえ」と祈ることの大切さを改めて深く考えさせられるこの頃です。
2012年9月2日(日)牧師 國枝欣一
愛や善はそれ自身では形にならず、それらが形になるためには真理や理性や合理性と結びつくことが必要だと言うのはスウェーデンボルグが教えているところです。一方、オーム真理教の事件でも、連合赤軍事件でも、そこに関わった人々が、心から魂の救済を願う、国を憂う善意の青年たちだったと言われることがしばしばありました。左翼であろうと右翼であろうとそういわれることがしばしばです。太平洋戦争の時も多くの若者は国を思い、家族を思って死んでゆきました。
オーム真理教、連合赤軍、日本国軍隊。まったく異なった取り合わせのように思いますが、共通しているのが善意の人々で、みんな特殊な人々でなくごく普通の人々の集団だと言うことです。麻原彰晃、森恒明、永田洋子、東条英機といったそれぞれの代表者の問題だけではなく、部下や信奉者との相互関係の中で起こった悲劇的な事件ということも可能だと思います。
特攻兵器を作れと命令された技術将校はこんな兵器では戦えないと思いながら命令に従いました。アジトでの総括に参加をするのがいやだなと思いつつ加害者の立場になったメンバーがいました。教団の中で理解できないことが起こると自分の修行が足りないからと殺人に関わった出家修行者がいました。
元海軍の将校たちの集まりの中ではそれらを「やましき沈黙」と言う言葉で表現しましたが、それは現代の様々な集団の中でも起こっていることです。動機や意志は純粋であり、愛に満ちたものであっても真理、理性、合理性の面が十分に働かないと意志や動機がどんなに善なるものであっても容易に虚偽や誤謬に転換してしまいます。私たちの信仰生活にも容易に起こることです。自らとしては注意深くなり、主に「悪しきことから救いたまえ」と祈りたいものです。
2012年8月26日(日)牧師 國枝欣一
私たちの多くは、他人から相談を持ちかけられるとそれに答えなければならないと感じます。ですからその相談に正しい答えとか良いアイディアを出せないと相手の希望に沿えてないと感じてしまうことがあります。本当にそうでしょうか。相談を持ちかける人に代わってその人の人生を生きることは私達にはできません。したがって正しい答えとか良いアイディアがその人の生活にぴったりかどうかも分かりません。
私たちは自由選択の意志と理性ないしは合理性が基本的に与えられていると学んでいます。だとすると相談を持ちかける人自身がその人の自由選択の意志と合理性を使って事態に切り込んでゆけることになります。ですから他人から相談を持ちかけられたときに、その人が選択できるように援助をし、合理的に事態を把握できるように援助すればよいと言うことになります。どんなに困っている人がいても私たちはその人の生活の全部を知っているわけではありません。その人に与えられている意志と理性を、あたかもその人が自分自身の努力で働かせるようにすると主からの流入が働き、救いはやってきます。
私たちはみ言葉を聴くとか、み言葉に従うとよく言いますが、他人の話を聴けないでみ言葉を聴けるということはありません。私の相手となる人との関係は意識をしていようとしていまいとに関わらず、その関係は常に主と私の関係を表象しています。私たちの文化の中には「和をもって尊しとなす」ということがかって強く言われたことがありました。戦後その言葉は否定的にみられてきましたが、現在のように個性が評価される時代に、戦前、戦中とは別にもう一度この言葉をかみ締めて見たいと思います。「和」が天界的なものであると考えるとやっぱりそれは尊いものですし、相談に乗れると言うことは主から与えられている自分の役立ちをそれぞれの場で果たしていくと言うことにつながります。それが信仰生活です。
2012年8月19日(日)牧師 國枝欣一
「盗んではならない。」と「偽証してはならない」という二つの戒めは互いに深く関係しています。前者は文字通り財物の窃取を意味しますが同時に霊的な意味としては、「功績はあるべきところにお返ししましょう。」という勧めでもあるということを前回お話しました。後者は「真理を語りましょう」と言う霊的な勧めでもあります。
私たちは 嘘をつくと言う悪い癖からなかなか脱することができません。積極的に嘘をつく積り等ないのに、困っているのに困っていない振りをしたり、調子が悪いのにまあまあと言ったりもします。これらの原因は何かとよく自分の内部を見つめると、それは虚栄心であったり、自己防衛であったり、不安感であったりします。こうしたことによって私たちは神から与えられている真理を語ると言う恵みから遠ざかってしまうと言うことが起きているのです。
「真理を語る」と言うことは誰かを断罪したり、攻撃したり、自分の正当性を主張して相手を打ちのめすことではありません。誇張したり、正当化したり、過小評価をしたり、歪曲せずに事実を語ると言うことです。また事態をちょっと下がって俯瞰する、よく観察するという態度が心と感情を静かにさせる効果もあります。結果として他人を攻撃したり、傷つけないでことを伝えることができます。
この二つの戒めは、私たちに功績を自分のものとしないと言う、謙虚でいることの大切さと、プライドの持つ罠や絶望感や無価値と感ずる罠から私たちを自由にしてくれるものです。「天界と地獄」302にはプライドや絶望感などをどのように投げ捨てることができるかの秘密が書かれています。ぜひ読んでみてください。私たちの霊的成長を促すことができます。
2012年7月22日(日)牧師 國枝欣一
「盗んではならない。」は十戒のひとつです。盗みは何も「物」を盗むだけではなく、知的財産権といわれるデザイン、コンピュータソフトウェア、論文の盗用なども含みます。またそれだけでなく霊的な意味としては、「功績はあるべきところにお返ししましょう。」という勧めでもあります。と言うことは自分の中にある優しさや、正しい行い、真の考えなどは、すべて自分のものではないという考えをしっかり持ち、神にその功績を帰すべきであると言うことです。「全て善きものは主から、全て悪しきものは自分から」と言うスウェーデンボルグの教えを思い出します。
しかし多くの私たちは、他人と比べて自分の良くできることを誇り、優越感を感じます。神から与えられたものであるにもかかわらず、自分の功績と思ってしまうからです。深く自己点検し、自分の中の偽りの神を見出す努力をしないと不健全な誇りを持ってしまいがちです。
ヨハネ福音書(8:1-11)に姦淫の場でとらえられた女の話しが出てきます。姦淫の英語は「adultery」といいますが、この語源はラテン語の異質のものや不適切なものを加えて「不純とする」「汚す」を表す語から来ているそうです。確かにレビ記20:10にあるように必ず石打の刑によって殺さなければならないとあります。石には霊的な意味として真理を表すという意味がありますが、同時に裏返すと虚偽と言う意味もあります。
聖書を自分に都合よく解釈したり、正しさを主張する時にこうしたことが起こります。女の周りにいた男たちはまさにこうした人たちだったのです。主の「あなた方の中で罪のないものがまず石を投げつけるが良い」と言う言葉に年寄りから一人一人出て行きました。み言葉を「盗んでいた」事に気づいたのです。そしてただ一人残された女は自己弁護することなく自己防衛的にもならずに「罪を犯さないように」と言う主の言葉を受け入れました。注意したいものです。
2012年7月15日(日)牧師 國枝欣一
依存症にはアルコール依存、ギャンブル依存、 買い物依存、マリファナなどの薬物依存などいろいろありますが、依存症を克服することは本人も家族も多大なエネルギーを必要とします。以前アルコール依存を克服された方が教会に見えました。彼は自分の体験を役立てようと断酒会のリーダーをつとめています。体を壊し、家族にも見捨てられ、どうにもならなくなってはじめてアルコールを断つ決断をし、断酒会のメンバーに支えられ、アルコール依存から脱出できたそうです。このどうにもならない体験を「底つき体験」といっています。この体験がないと依存症から脱出できないそうです。
しかし患者の「底つき体験」を阻害してしまう大きな力が家族間の中に起こることが良くあります。そのひとつが「共依存」と名づけられている依存症を返って強化する家族間の力の働きです。「共依存」とは簡単にいうと夫の依存症を妻は意識の上では良くないと思い、何とか止めさせようとはしているのですが、その止めさせようとしている行為の中に無意識ではあるけれど彼が依存症であることによって自分の存在価値を得ている状態といえるかと思います。しかし配偶者や家族がそれと気づくのは容易ではありません。
霊的には家族への愛や善なる思いが悪に変化してしまうことであり、知恵や真理が偽りに変わってしまうことです。結果として本人も家族も地獄の苦しみを経験してしまいます。「底つき体験」とは霊的には「悔い改め」であり、そこから始まるのが「自己改革」です。依存症というのは精神病の一分野で私には関係ないと思われるかもしれません。しかし誰でも依存・共依存傾向は持っています。主にある信仰を考える私たちにとっては、病気とはいえないこの傾向を克服する作業が「信仰」なのだといえるかもしれません。この世を旅立つまで続く作業です。
2012年7月8日(日)牧師 國枝欣一
神学校時代のある授業で教授が学生に「一番長い冬はいつか」と質問したことがありました。みんな考え込みました。日本流に言い換えれば「一番長い梅雨はいつか」ということになるでしょう。それはわたしたちが 「試練」について学んでいたときのことです。ボストンは冬にはマイナス20℃を超えることが何日もあります。答えは、「冬を経験している最中」でした。日本の梅雨もなかなか過ごしにくい季節です。これから関東では梅雨本番です。蒸し暑い日々にはうんざりします。毎年梅雨の終わりの日は若干の違いはあっても必ず終わり、夏がやってきます。
「試練」の最中は、これが永遠に続くように感じ、辛いのですが、どれほど厳しい寒さの冬であっても、過ごし難い梅雨であっても、次の季節が必ず来るように、「試練」もまた終わるときがあるのだというのです。スウェーデンボルグは試練の後に平安が訪れるといっています。東日本大震災のあと「想定外」という言葉が良く使われました。人生における「試練」もまた個人としては「想定外」でしょう。回復困難な病気、突然の事故、それに伴う大きな怪我、会社の倒産、リストラ、それに伴う経済的困難、愛する者との離別などたくさんあります。それらの最中で人は皆苦しみます。
しかしその最中にあっても、「試練の意味を見出し、試練もやがて終わる時がある」と信じることができれば耐えやすくなります。あるいはその試練を耐える力を増すことができます。また「神はその本人に耐えられないような試練は決して下さない」という考えがあれば、そこに向き合う力が出てきます。信じること、考えを持つことはその人の生活の仕方に影響を与えます。その生活の仕方がその人の信仰をあらわします。新教会人の私たちは、そこに主がいまここに居られることを感じ、主は全能の神である事を信じ、自らを委ねていくことができる幸いを与えられています。試練を避けるのではなく、引き受ける力を与えられていることを感謝したいです。
2012年7月1日(日)牧師 國枝欣一
ボストンに留学した年の話ですから随分前のことで申し訳ありません。神学生は皆、日曜日教会で実習をしました。私は言葉も不自由で車もないということで学校から歩いて行ける近くの教会で実習をさせていただきました。会員数300人ほどのアメリカでは中規模の教会でした。中年の家族が多い、したがって小さな子供たちもたくさんいて教会学校も盛んな教会でした。この教会の40代50代の会員の多くが教会は家族だと言っていたのが印象的でした。アメリカ社会では皆胸を張っていなければ生きていけない社会です。外では弱みを見せられないけれども教会では大丈夫なのだという意味なのです。私の教会の原型になっているものには、学んだ教会論と共に、今まで育てられた教会があります。また前職であったYMCAもそのひとつになっています。上述のボストンの実習での経験もそのひとつです。
こうした経験は 今、新教会を建てると言うときにも働いています。教会は家族だといった40代のアメリカ人サラリーマンの声は今も心に響いています。喜びも悲しみも辛さも共にする、現実的には難しいことがいっぱいある中で困難であるけれど、それらを共にしようと努力することが家族を造ることであり、教会を造ることなのだと思います。
人間の視点から見ると、長所も短所も含めてその人になる、そのままでいられる、いることが許されている場、それが教会なのだと思います。"私"という存在が本物になるということが実に難しくなっているというのが現代ではないでしょうか。教会は、主に任せ、自分を手放すことのできる場、安全、安心の場になることが求められているのではないでしょうか。この世の教会は天界の表象であるということをもう一度深く考え直してみたいと思います。そしてそれを単に観念の問題とするのではなく、現実のこととして取り組んでゆきたいと思います。そのために安息日を守り、もう一度主との関係を結びなおす機会を皆さんと持ちたく思います。
2012年6月17日(日)牧師 國枝欣一
「悔い改め」と「自己改革」は理性をもとにして考える過程であり、「再生」は意志をもとにして愛する過程ですと「真のキリスト教」571節にあります。確かに何か失敗をした時に何で失敗したかあれこれ考えて「だめだった。」と思い至ります。思うこと考えることは理性の働きです。反省することは自分の成したことを振り返ることですが、この振り返りがあって「悔い改め」ることが起きます。ですから自分を振り返ることのない人は救われるということもありません。この様な人は少ないと思うかもしれませんが、意外とそうではなく思い込んでいるために気づけないということが良くあります。
「再生」 とは「新しく造られる」というような意味があります。その時人はそのようにすることが好きになり、そのようにすることが大切と思えるようになって、その人の視点は意志が中心となり、後からその理由付けのために理性が働きます。「新しく造りかえられるためには、ただ主のみ力によって、仁愛と信仰という二つの手段が人の協力よって働かなくては、実現しない」(TCR576)とあります。「人の協力によって働かなくては」ということは、私たちが自らの意志で選択するということです。自由選択の意志ということは、愛に関係する領域です。
「悔い改め」「自己改革」「再生」という霊的成長の順番は、赤ちゃんが寝返りをうち、ハイハイし、つかまり立ちをして、初めて歩き出すように、その順番を飛ばして成長することはありません。人間は多面的な存在ですから、ある面では再生が起こっていても、他の面では悔い改めから始まるということは良くあることです。そうした点で私たち新教会人は、この世に生かされている限り、「悔い改め」「自己改革」「再生」をあたかも自分の力でするように努力する必要があります。その時主のみ力が私たちに豊かに働き、霊的成長をすることができます。
2012年6月10日(日)牧師 國枝欣一
信仰の維持のために、祈りは欠かすことはできません。主の祈りは、主がその基本を私たちに示してくださっているものです。祈りは、祈れない状況にあるときほど大切です。怒りに翻弄されているとき、イライラしているとき、人をそして事柄を恨んでいるとき、得意の絶頂にあるとき、私たちは、本当の神ではなく、偽りの神に膝間づいているときです。偽りの神から離れる第一歩はその偽りの神に名前をつけることです。自分中心の神とか、偉ぶりたい神というように、偽りの神に名前をつけることによってはっきりと認識でき、そこから離れることができます。またこうした神に支配されているときは、神の名をみだりに唱えてはならないという戒めを犯していることにもなります。偽りの神を振り回しているのです。こうした事態に陥っているとき、 困難ですが、祈りが必要です。
個人で静かに祈ることが大切ですが、怒っている最中にこの怒りを取り除いてくださいという祈りはあまり有効ではないように思います。それより、神の似姿として今私に欠けている神の性格を求めたほうが良いように思います。するといま自分が何をなすべきか与えられます。猛スピードで動いているときに、ちょっと気を静め、振り返ることでまったく異なった事態が見えてきます。
個人で静かに祈ることと同時に、他の人々とともに祈ることも大切です。共に祈ることを通して教えられることもたくさんあります。自分が一人ではないこと、つながっていること、他者の中に働く神を実感できることなどです。悔い改め、自己改革、再生は、こうした一人の祈りと、仲間との祈りの中で起こってきます。心が開かれ、私たちの霊が天界とつながり、天界からの流入をたくさん受けられるようになるからです。祈りつつ、日々の具体的なことに取り組んでいきましょう。主は私たちの中に、私たちと共に常に歩んでくださいます。
2012年6月3日(日)牧師 國枝欣一
「安息日を守る」は十戒の第3番目です。私たちはこれを文字通り聖日礼拝を守ることとして受け取りますが、この戒めの意味はもっと深いものです。聖なる日は神が創造のすべてをなし終えた時に休まれたということから特別に聖別して尊い日として制定されました。
ここには人間が神との関係を結びなおす日という意味があります。神と再び結びつき、神を通して他者と結びつくことが宗教の本質です。そして私たちの神は私たちが最もエネルギーを使い時間をかける対象です。主は奨められています。「心を尽くし、精神をつくし、思いを尽くして、あなたの主なる神を愛せよ」(マタイ22:37)と。ところが私たちが実際に時間とエネルギーを使うことは怒りであったり、恨みであったり、成功を願うことであったり、他人からよく見られることであったり、金儲けであったりします。本人も気がつかないのですが、これらはみんな偽りの神です。偽りの神に額づき、膝まづいているのです。
「安息日を守る」ということは、そこから離れて、神に憩い、神の導きに信頼し、神の意思を行おうとすることです。ですから聖日礼拝を守ることも大切ですが、そればかりではなく、一人で神の無限の性格(例えば、愛、平和、親切、励まし、謙虚、忍耐、寛容、許し、尊敬、喜びといったもの)を求めて祈ることです。それは過去に引きずられたり、未来に不安を抱くことではなく、今ここに集中することで与えられます。
ユダヤ教では安息日にしてはならないことは1521もあるそうです。これら全部を守ることはできません。しかし主は安息日に良いことをすることを奨めておられます(マタイ12:12)。神が私たちの中で働き、私たちを通して神の御心が行われることを願いましょう。具体的には起こっていることと反対の性質を求めて祈り、主を待つことです。その結果私たちが予想もしなかったようなことが起こります。その時私たちは「安息日」の状態になっているのです。
2012年5月27日(日)牧師 國枝欣一
5月は私にとって、とても厳しい月となりました。教会に関することは私の仕事の中心ですからこれをはずすわけに行きません。その上に今月は臨床パストラル研修センターの一週間集中講義が入っていました。9時から5時まで5日間連続の講義です。これだけでもかなり大変なのですが、5週間連続で毎週月火と夜6時半から10時まで下北沢で俳優の養成講座に出ていました。10年以上前から参加してみたいと思い続けていたのですが日程の調整ができず、実現していませんでした。心理療法や信仰生活とある領域で密接につながるところがあるからです。
今回縁あって日程的にも何とかなると思いましたので、 ロシア人の演出家の指導を受けるべく参加しました。後、明日明後日を残すだけですが、非常に密度の濃いワークショップですので終わるとぐったりします。周りはみんな俳優、俳優のひよこ、卵ばかりです。ロシア人作家チエホフの作品を材料に学んでいるのですが、俳優たちは台本をどのように読んでいるのかその努力の一端を学ばされました。ワークショップですから私のような門外漢も一緒に演じます。
登場人物を良く観察し、想像し、最後はその役と一体化するのですが、そのトレーニングをしていると自分の中の深い部分が揺り動かされ、スピリチュアルな痛みに気づかされました。それに立ち向かうことは至難の業でした。精神的なエネルギーを消耗し、現実の記憶も飛んでしまい、ものすごく疲れ、体中が痛みました。
今回参加してみて、単に時間的なやりくりができるというレベルで参加したのではだめだ、ひとつのことに集中しないと学べないと言うのが私の実感でした。しかしかけがえのない体験をさせていただいているという実感はあります。また信仰生活を俳優と言う人たちは演劇と言う異なった範疇で追求していると言うことも良く分かりました。5月は私にとって実りの多い月でした。
2012年5月13日(日)牧師 國枝欣一
ヘルマンハープの楽団「みどりの会」は全員青山学院大学の出身で、学生時代に学生YMCA(学Y)に関わってきた人々です。ある者は神学部の先生を中心に読書会に参加していたり、深川のありの街で奉仕活動をしたり、大船渡にある伝道所建設に労力奉仕をしたり、当時エネルギーが石炭から石油へと変わる時期だったので、炭鉱が次々と閉鎖される中で、筑豊の子供を守る会が結成され、そこで活動する者たちでした。そうした経験を持つかっての若者も今は、信仰歴40年50年になる人々です。それぞれ所属する教会で重要な働きをしつつ音楽を通じて社会奉仕をしています。仕事を勤め上げ、親の介護をし、見送り、孫のいる世代の人々ですが、ヘルマンハープとの出会いはそんなに古いものではありません。
青山学院の学Yは長い歴史があり、その部活動を通じて出会ったカップルが結婚をするというケースが何組もありました。そして私たちの学年の結束には硬いものがありました。その中の一人で先輩と結婚し現在は奈良に住み夫を介護している仲間がいてそのカップルも参加できるようにと奈良で会合が持たれたことがありました。集まった一人の中にヘルマンハープをやっている仲間がいて彼女の演奏を聞いて音色の美しさに魅かれてグループが結成されたようです。学生時代の私たちのグループの名前「みどりの会」をつけて。
信仰の真理だけでは冷たい意固地なものになりがちです。愛だけあってもそれは形になりません。学生時代を懐かしむ老人世代の同窓会でもありません。主にある交わりを通して他者に仕えていこうとするグループです。教義として新教会の教えを守る人々ではありませんが、それを実践している人々です。12日の土曜日も10時から6時までぶっ通しで練習を重ねる人々です。こうした人々を招ける機会を与えてくださった主に感謝したいと思います。
2012年4月22日(日)牧師 國枝欣一
自分を全体的に把握することの難しさを実感させられる場面が最近何回かありました。中学時代の友人たちが語る私は、私自身の思っている私とずいぶん違っていました。大学時代の友人はクラブ活動での私の存在を私とは違った捕らえ方をしておりすごく驚かされました。これらは私に関する私の知らない面であり、私に関して他の人が知っている私です。
神はI am what I am. 私は在って在る者と聖書に表現されているように、その存在に特に付加されるものはなく、またその存在から何も差し引かねばならないものはない存在、完全な存在です。神の像、似姿としての私たちは上記から推測してそのまんまで良いのだということができます。そして「そのまんま」とは本物の私ということになります。
浄土真宗のお坊さんで仏教学者の方の中に(お名前を失念してしまいましたが)「南無阿弥陀仏そのまんま、南無阿弥陀仏そのまんま、南無阿弥陀仏そのまんま・・・」と唱えればよいという方がいらっしゃいますが、これは阿弥陀仏の本願力(慈悲)にただすがるということです。それが救いのただひとつの大切なことだといいます。
私たちもあるがままの自分を受け入れ、神の性格である、愛、誠実、安心、平和、慈しみ、温和など、自分に足りない部分をただ祈り、主に願い求めるとき、その不足している部分が与えられるのではないでしょうか。それは似姿としての完成を再生を繰り返し求めることです。
言うことは簡単です。しかし本人に気づきにくい部分がたくさんあって苦労しますが「南無阿弥陀仏そのまんま」は平和と謙虚さと忍耐を与えてくれるような安らぎを感じます。
2012年4月15日(日)牧師 國枝欣一
先週のイースター礼拝では洗礼式が行われ、新しい二人の仲間が私たちの新教会に加わってくださいました。主の大きな働きを感じ、感謝の念が湧いてきます。洗礼を受けることによって私たちがなしてきた一切の罪が消えるわけではありません。この洗礼を契機に私たちは霊的に生まれ変わっていこうとしているのです。父、子、聖霊の聖名によって洗礼は授けられたのですが、今週は聖霊について考えてみます。
私たちは唯一の主なる神イエス・キリストを信じます。聖霊とはそのイエス・キリストの働きですが、それは人間に意志があり、それをしようという考えがあって、それを実行するようなものです。また、人間には霊魂があって肉体があって行為と言うことが起こります。この実行や行為と言うところに当たるところが聖霊です。意志すること考えること実行することと分けることができますが、実はその三つをやっているのはみな一人の人間です。
父、子、聖霊というとそれぞれ別なものと感じます。すると父に願うこと、子に願うこと、聖霊に願うことと言うことが考えられますが、そうなると3つの神を信じることになってしまいます。そうではなく人間の例をあげたように考えると三一性ということがはっきり分かると思います。
聖霊の働き、すなわち主の働きを感じ取るということは何か特別なことのように感ずるかもしれませんが、実はそんなに難しいことではありません。日常の中で常に起こっていることと言ってよいと思います。それを感じ取れない人間の側の鈍感さが問題です。主の働きを見出す目を養う必要があります。それは主へ自分のまなざし、すなわち注意を向けると言うことです。すると私の心は天界と天使とに連絡を取り、聖霊の働きを見出せるようになります。
2012年4月8日(日)牧師 國枝欣一
「真の洗礼(バプテスマ)式は聖餐式と共にプロテスタント教会にとっての秘蹟(サクラメント)です。新教会に属する私たちもプロテスタント教会の流れに沿って以上の二つを儀典として大切にします。洗礼の役立ちの第一はキリスト教会への入門であると同時に霊界のキリスト教徒への仲間入りです。(TCR677)第二は、信徒としてイエス・キリストを主として認め、従うことです。(同681)第三は人が霊的に生まれ変わることです。(同681)
ということは第一にはキリスト教徒という名をいただくことであり、第二には主をあがない主、救い主、再生させる方、救い主として知り、認めることです。そして第三には主によって生まれ変わることで、それが実現すると救われる(同685)と言うことが起こります。ですから再生は内部人間の洗い清めであり、霊的な成長を示します。
人は人間として生まれてくるのではなく、人間になるために生まれてきます。人は人間に育てられることによってしか人間となることはできません。人が生来持っている〈かたち〉とは神のみ力によって〈いのち〉を受ける器官であるということです。ということは神が〈あらゆる神の善〉を人に注ぎいれて、神との一体化を通して永遠に幸福になるようにと導かれています。
洗礼は内部人間すなわち霊の清めですが、それですべての罪やけがれが無くなるわけではなく、あたかも自分で努力するように自分の罪に気づき、悪から離れる努力をするときに、主からの流入が働き、私たちは再生への道に導かれます。
再生への努力は、私たちがこの世に存在し続ける限り続きます。洗礼は教会への入門でここがスタートラインです。それぞれの人間はその人の達し得たところから出発します。交わりを通して霊的に生まれ変わり成長していきます。(TCR=「真のキリスト教」を示します)
2012年4月1日(日)牧師 國枝欣一
「真の聖餐式というのはプロテスタント教会にとって洗礼と聖餐式という二大儀典のひとつです。新教会に属する私たちは、すべて自然的なものは霊的なものに相応していると考えますので、聖餐式で使われるパンにもぶどう酒にも霊的なものが相応していると考えます。主の肉とパンは、主の愛からでる神の善のこと、主の血とぶどう酒は、主の英知から出る神の真理のことです。そして飲食するということは自分のものとして同化するということです。
この儀式は主によって制定されました。(ヨハネ6:27~56を読んでください)ですから、肉といっても人肉を示したり、血といっても血液を示している訳ではありません。しかし肉も血も自然的な意味では主の十字架上の苦難を示しています。その点では主の十字架上の苦難は、創世記の過越しの出来事の最後の過越しです。ですから主は「わたしの記念として行いなさい」と言って制定されたのです。(ルカ22:19)聖書では「血」と言うと主ご自身や「神の真理」を表し、「肉」と言うと愛の持つ「神の善」を表しています。しかもこの二つは主にあって一つとなっています。
ここで問題となるのが私たち人間がどのように養われているかと言う問題です。肉体のために私たちは食事をしますがこれは自然的な養いです。同時に私たちは霊的存在です。霊的存在魂の養いのためには霊的養いが必要です。肉体は死にますが、霊魂は生き続けます。と言うことは霊的養いは永遠の救いがその目的となります。
従って聖餐式には三つのものが含まれています。主ご自身、主による神の善と神の真理です。したがってそこには天界と教会のすべてのものがそこに含まれていると言うことになります。人間を霊的に見ると霊魂すなわち心、意志と理性という三つのものが存在します。この三つが先の三つを受ける器になっています。すなわち霊魂、心は主を受ける器であり、意志は神の愛と善を受ける器です。そして理性は神の真理を受ける器です。ということで聖餐式はもっとも神聖な欠くことのできない儀式と言うことになります。
2012年3月25日(日)牧師 國枝欣一
「真のキリスト教」スウェーデンボルグの最晩年に書かれたものです。日本語で1700ページにもなる大著ですが、この中で特徴的なのは、私たちが新たに創り返られる経験をするのは、「新しく造りかえられるには、ただ主のみ力よって、仁愛と信仰という二つの手段が、人の協力によって働かなくては、実現しないということです。」(TCR576)神からの働きかけと人の協力によらなくては、実現しないというところです。
仏教では自力本願と他力本願ということがありますが、スウェーデンボルグの教えからはその両方の中間といえると思います。私たちが霊的に成長することを主は常に望み、語りかけ、導こうとされていますが、その為に私たちがそれに応答するということが不可欠なのです。その応答の時に私たちは先ずそのことが道理にかなっている、即ち真理だと理性で認めてそのように自らがするということが必要です。ということは自分がやっているという感覚が働き,主が導いてくださっているとは感じられないのです。ところがあたかも自分がやっているようにやることで主との結びつきが強化されていくというのが霊的実際です。
このようにすることで「自己改革」はなされるとスウェーデンボルグは私たちに伝えています。ですから、私たちは先ず理性を使って「これではだめだ。」「こうしなければいけない」と思い、まったく自分の努力でするようにしたときに、受動側の人間の中で、能動側の主が働いてくださるということが霊的に起こっているということになります。これは単なる理論的な説明ではなく、これができるようになったとき「ああその通りだ」と実感できることです。そのとき「ただ主のみ力によって」ということが分かり、感謝と謙虚さが与えられるようになります。
2012年3月18日(日)牧師 國枝欣一
教会の庭にも遅まきながらも春はやってきています。今年度はシルバー人材センター庭掃除と木々の剪定をやってもらいました。庭には教会が建てられた時に青年たちによって聖書に出てくる植物が植えられたそうですが、レバノン杉の近縁種があります。大きくなって2階の屋根に届きます。それ以外はアザレア、つつじ、山茶花、ツバキなどですが、ツバキは江戸時代からさまざまな交配種が作られ、大輪のもの、中輪のもの、八重のもの、一重のもの、花弁に斑の入ったもの、しぼりのものというように実にたくさんの種類があります。ちなみに山茶花とツバキは似ていますが、花の散り方が違います。山茶花は花弁が散り、ツバキは花ごと散ります。そのツバキの中に「オトメツバキ」という名のツバキがあります。
その花の可憐な咲き方からずっと「乙女ツバキ」だと思い込んでいました。そのように思っている人は私ばかりではないようです。そして「乙女椿」で必ずしも間違いではないようです。ところが元々は「お止めツバキ」が本名だったそうです。江戸時代九州島津藩で作出され、門外不出と大切にされていたと聞いたことがあります。
室町時代のように戦があちらこちらで起こっているようなときには、新しいツバキの品種作りに精を出すなどということはなかったでしょう。平和な時代と、江戸から遠いということで、得られる密貿易などで豊富な資金があってできたことと想像します。
すでに二輪ほど咲いていますが、その花を見ながら遠い昔と南九州の風土を思い浮かべます。それぞれの木や草花の歴史や由来を知ることで一層それぞれに愛着を感じます。
2012年3月11日(日)牧師 國枝欣一
正月の3月11日がやってきました。地震が起きたときこの礼拝堂で患者さんとの会話記録検討会をやっていました。教会が大きく揺れミシミシ音を立てていました。電車は止まり、道路は渋滞で参加者は帰宅できず、教会に泊まっていただきました。次の日皆さんは無事帰宅でき、感謝でした。日本の震災というと思い出すのは1923年の関東大震災と1995年の阪神淡路大震災でしょう。今回の震災が他の2回と違うのは規模も大きかったということも有るかもしれませんが、国民的な支援がなされたということ、外国人に対してもきめ細かい情報提供がされているということでしょう。
関東大震災では何の罪もない在日の中国人、朝鮮半島出身者が殺されています。しかし今回はこういうことが起こらず、逆に中国人研修生達の安全を守るために本人は津波に飲まれて死亡するというようなことも起きました。また発展途上国から農家に嫁いだお嫁さんたちが、地域の困った老人たちを積極的にお世話をするなどということも報道されていました。
ここに私たち日本人の霊性の変化成長を見る思いをします。現実的には災害を利用して犯罪を起こした人々もいたでしょう。また利己心がむき出しになるような場面も間々あったでしょう。それでも私たちの全体的な霊性は確実に成長していることを知らせてくれます。「和を以て尊しと成す」という精神は、かっては帝国主義に奉仕するプロパガンダの一環として唱えられましたが、戦後の民主主義教育の結果が災害復興への大きな力となっていることを感じさせます。
キリスト教徒であろうとなかろうと、悪人であろうと善人であろうと、意識していようとなかろうと主は私たちを常に教え、導かれていることを感じます。感謝の心を持って事態を受け入れ、努力するとき、私たちは天国へと招かれていることを憶えます。東京にも直下型地震が襲うということが現実味を帯びてきています。備えをしっかりとしたいものです。
2012年3月4日(日)牧師 國枝欣一
正月のスウェーデンボルグの著作を読んでいてその特徴的なことのひとつは人間理解だと思います。私たちは人間というと肉体を持った自分を人間と考えます。しかし彼は人間を「霊」と考えています。この世に生きている私は神の似姿、神の像と聖書には書かれていますが、そこから私たちは自分と同じ形の神を想像します。するとこんな疑問が出てきます。神様は太っているの? やせているの? 背が高いの? 低いの? などなど。
日本語で「霊」というと何とはなしにおどろおどろしい存在を考えてしまいます。そこから神秘主義に興味を持つ人は、そうした体験を話して自分は霊的な感覚があると錯覚します。あるいは低次元の霊的経験を誇るような間違いも起こしてしまいます。これらはスウェーデンボルグの私たちに伝えたいこととまったく違います。また彼の著作に詳しくなってとうとうとその教説を述べることを誇る人もいますが、それも形は似ていても霊的世界を理解していることとまったく違います。
信仰は知識ではありません。信仰は生活だということをはっきり知っておかなければなりません。信仰の真理は合理的でもあり、愛と善に根ざしているものです。愛と善は私たちにとっては意図であり、願望であり、欲求であり、感情などです。これらは強く感じたり、弱く感じたり、今すぐ実現したかったり、明日であったり、1週間後であったり、1年先であったりするので把握が難しい領域でもあります。そしてそれは人間の意識の基礎を成すものです。
その意識を霊といっても良いでしょう。それは形ではありません。形として見えなくても、把握することはできます。その意識が人間です。となると天使や、巨大人としての天界、そして主なる神も違って見えてくるはずです。
2012年2月26日(日)牧師 國枝欣一
正月の今週の大きな事件は多分犯行当時18歳1ヶ月だった犯人の最高裁における死刑判決が出たことと、30歳の息子とその父母が餓死したニュースではないでしょうか。事件の内容そのものはまったく違うものですが、命が失われる(失われた)という点では同じです。国は国民の生命と財産を守る責任を持っていますが、一方は国家による合法的殺人、他方は生命と財産を守れていない現実です。これは監獄のなかで本当に矯正教育できているのかという問題もあります。凶悪犯で独房入っていればそれだけで学ぶ機会が少なくなります。たとえ雑居房に入れられたとしても再犯率は低下せず、犯行を繰り返す人々が多いと聞きます。教育がその人々にとって妥当ではないからでしょう。刑務所だけで処理できない大きな課題があります。
他方餓死した家族は困難なときに頼るすべがなかったのでしょう。つらさや困難を聴いて貰える人が近くにいなかったことが伺えます。そこに孤立した家族が想像できます。都会の生活は農村漁村と違って近所とのしがらみが少ないという気楽な部分があります。しかし気楽であってもいざ生活に大きな変化が生ずるとその変化に対する安全安心の保障はされません。
犯罪の場合、加害者の被害者性ということがよく言われます。犯人となるその人がその成長の過程でさまざまな困難に出会っていることが多いということです。人と人とのつながりが健全でないために犯罪を犯さざるを得ないような状況に置かれるということです。
どちらの事件にしても人間関係の希薄さは事件の大きな要素になっています。良好な人間関係があって人は安心安全を自分のものとすることができます。教会はそのセーフティーネットの大きな役立ちを果たすことができます。主にある良好な人間関係は、それぞれを生かすものとなります。本物の出会いをこれからも大切にしてゆきたいと事件を通して改めて思いました。
2012年2月19日(日)牧師 國枝欣一
正月の「奇跡」とは広辞苑によれば「常識では考えられない神秘的出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で宗教的真理の徴(しるし)とみなされるもの。」とあります。こうしたことは聖書の中にたくさん記されています。神は万物の創造者。すべてのものを秩序にしたがって創造されました。自然界は、霊界の表象ですから、わたしたち人間が霊的な過ちを犯すことで、それが自然的なゆがみとなって現れてきます。ですから「奇跡」とは、物質世界に霊界の介入があってその結果が、特殊で常識では考えられないような様相で現れ、人間の感覚から見て異常と見られる現象といえると思います。以下は新教会用語集からの抜粋です。
霊は、物質や肉体よりはるかに高い自立性を持っており一定の秩序で物質世界を支えています。それが通常の枠を超えて働くとき奇跡になります。主のなさった奇跡の大半はこれです。これは霊的能力が、物質に対し著しく優位に立つときに可能で主の弟子たちが行いましたが、他宗教のみならず魔術師にも可能です。ただ主や善霊は、人の自由、解放を目指しますが、悪霊は人を奴隷化することが目的です。
スウェーデンボルグが経験した霊界との交流も奇跡と言えます。彼は一時的な死を経験し、霊界で多くの霊に出会い、最後の審判を目撃しています。これは旧約時代の預言者も経験していますが、これらは自然界にいる人間が霊界の方に引き上げられることによって起きます。
主の処女降誕と復活は奇跡の最たるものです。主の人間性は神的肉体をともなって完全に神化されると同時に、マリヤに由来する人間性は完全に消滅しました。これは人類に与えられた最大の奇跡です。純粋の教義を理性で理解しようとする新教会とっても主の降誕は奇跡というよりほかありません。神の全能の力は人類救済の重大な時機に奇跡的手段をとられたとしても不思議ではありません。わたしたちの理性は「奇跡」の存在を認めます。
2012年2月12日(日)牧師 國枝欣一
正月の出エジプト記21章には人に傷害を与えた事例に関しての規定が書かれています。けんかをして怪我を負わせた場合、奴隷を傷つけた場合、飼っている牛が人を傷つけた場合、あるいは井戸を掘ってその井戸にふたをしていなかったために人や家畜が死んだ場合どうするかということなどです。これらはイスラエルの人々が生活をしていく上で必要な法律だったのでしょう。しかしスウェーデンボルグはここに霊的な意味を読み取ります。
飼っている牛が人に危害を負わせる危険があらかじめ予測され、警告されていたのに事故が起こってしまった場合は、牛も飼い主も死刑になるというものです。警告されていた場合、危険が起こらないようにその牛をよく管理し、その行動を抑制しなければなりませんが、それは霊的には「自然的なものにおける悪の情愛を抑制することであり、それをもし抑制しないなら信仰の真理を損なうのである。」とあります。
その意味は、主は人の心に語りかける存在であって、人がその心にあるものに気づかないならばその人の中に入って行けないということです。心の中にあるものはその人が何に興味を持っているかというその人の愛の傾向(情愛)です。自分勝手な人は自分の欲望が満たされることだけを考えています。それがその人の情愛ですが、そうしていると主の語りかけ、導きを感知することができないということです。これらは私たちの中では癖になっていることです。
形は信心深そうに見えていても、実はよくみると別の心が動いているなどということはよくあることだと思います。こうした日常生活の中の「悪の情愛を抑制すること」に私たちは注意深くならなければなりません。私自身もみ言葉と著作に触れて、改めて反省させられました。
2012年2月5日(日)牧師 國枝欣一
正月の「兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」という主の言葉はマタイとルカに出てきます。「兄弟」とは自分と同じように主の教会に属している人のことです。そして「目」は真理の理解力を示し、「ちり」は小さな虚偽を示すので、同じ信仰を持つ他人が真理の理解の面で陥っている小さな誤謬に気づくことを示しています。「梁」は建物の重量を支えるきわめて重要な部分であるので「ちり」と比較するときわめて大きな悪に基づく虚偽、すなわち自己愛や世間愛と言うことができます。
この箇所は牧師や教会の指導的な立場にある人々に対する警告です。神学教育を受け、専門知識をより多く持つもの、または信仰暦が長く信仰の先達になるような人々に向けた言葉です。知識や経験をより多く持つものは、後から続く者の小さな過ちが気になりますが、当の本人は自分の中にある大きくてしぶとい欲によって真理を見ることを拒否している自分に気づけません。こうしたことは、先達と思っている人間にとって陥りがちな傾向です。
日本語には率先垂範という最近使われなくなったことばがあります。指導するもの、リーダーはみんなの手本となるように他者にして欲しいと思うことを先ずするという意味ですが、それは先のみ言葉の真逆を示していると思います。自分の中にある悪しきことにより深く気づき、そこから離れる努力をするときに、私たちは謙虚になれると思います。そうしたときに私たちは、意志しなくても、より主に近づく生活ができるようになるのです。
2012年1月22日(日)牧師 國枝欣一
正月の人にはいろいろあります。青年期の若者たちは自分がどのように見られているかということを気にしていることがよくあります。私は他人が私をどのように見ているかあまり気にしていません。でも、自分が何時もたいしたやつではないという感じを持っています。留学中もアメリカ人のクラスで私だけが外国人で有色人種。英語に強いわけではなくクラスでやっとついていっている劣等生という感じが離れませんでした。もうすぐ50に手が届く年齢でもそうでした。
30代の前半、ある部門の責任者でしたが忘れられない失敗をしたことがあります。担当していた部門のメンバーでしたが結婚式に招かれていたのですがすっかり忘れてすっぽかしてしまったことがあります。さらに後で気づいたことですがその招待は主賓としてだったのです。
こんなことが起こったのは私がその人の人生の門出に大きな働きをする等という人間じゃないというマイナスの自己認識があったためです。いまだに私の中には自分がいったいどんな人間なのか正確な判断のできない部分があります。それが元で結果として多くの人を傷つけて来ている部分があります。
自らへのより深い気づきは、ないものを欲するのではなく、与えられているものに気づき、感謝してそれを十分使いこなすことだと感じます。それが与えられている使命に気づくことであり、役立ちを果たすことにつながるのだと思います。感謝する生活は霊的な生活であり、天使と共にいる生活です。それは自分を正当に評価することであり、過信したり、反対に自信を失うことではありません。その点私は修行がまだまだ不足している人間と思います。
2012年1月29日(日)牧師 國枝欣一
正月の人は通常自分は生きているとしか感じられません。生かされているという感じは持てないのが普通ではないでしょうか。しかし生きている自分をよく見つめて見ると生きているという感覚もあやふやになってきます。健康に気をつけている。毎日の食事を考えてとっている。疲れすぎないように心がけているなどといいますが、それが生きていることの証になるでしょうか。心臓を自分で動かしているわけではありません。腸から吸収する栄養も私が吸収しているわけではありません。心臓や腸等の器官を動かしている主体は何なのでしょうか。
人体のそれぞれの器官は個性的な働きをしています。にもかかわらずそれらが一致して私たちが健康に生きるために働いています。そうした力をスウェーデンボルグはコナトウスという語で表現をしています。これには努力とか推進力と言う訳語が当てはめられていますが、心臓が電気パルスで動き、腸で酵素が働いて吸収されやすいように食物が分解されているということが分かっていても、その力がどこから来るのかは分かっていません。しかし彼はここに霊的な力を想定して森羅万象を説明しています。
車の部品を1台分用意できれば、大変でしょうが1台の走る車を作ることはできます。しかし人間の持っているすべての器官を用意したところで人間を生かすことはできません。コナトウスは目的に向かう力です。その目的を知ってそれぞれが自分の役立ちを果たすとき私たちの生は充実します。その目的に向かう力は霊的なものを起源としており、その力で生かされているということになると、生きているのではなく生かされているという人間の実体が分かってきます。それが分かると少しは謙虚になれるかなと考えるこのごろです。
2012年1月15日(日)牧師 國枝欣一
正月の数日前の朝日新聞の社説の下の記事に論説委員の一人が東京電力の若い社員に呼びかける文章がありました。今、その現物が手元にないので記憶を頼りに書いているので正確ではないと思いますが、その記事は多くの社員が事故処理のために働いていることをねぎらい、若い社員にこそ東電の改革と未来があることを期待し、励ましている文章でした。この呼びかけを読んでいてそこに血の通う人間の温かい言葉を感じさせられ感動しました。
電力会社が原発の必要性を説き、電力の安定供給という社会的な使命を果たすために、安全神話をもとに、それぞれの職務を果たしてきた善意で誠実な社員も多くいるでしょう。そうした人々やその家族が肩身の狭い思いをしたり、自分や家族の将来に不安を感じている人達も多くいるはずです。
日本の歴史の中で震災、原発事故の今は、敗戦と同様に大きな転換期となるでしょう。ところが現実には、政治の場面では党利党略が先行して、この危機にどのように一致して当たるか等の視点がなく、生活に困まり不安に感じている国民目線が殆どないように感じます。
そんな時にふとイエス在世中のパレスチナを思いました。私たちはそれを霊的に捕らえますが、この時の私の感覚は歴史的なイエスを感じていたのです。ローマの傀儡政権ヘロデ王の圧制とユダヤ教支配の中で人々は苦しんでいました。理不尽に暴力を振るわれ従わされる、税の過酷な取立て。こんな中で出てくるのが、「1マイル行けと言われたら2マイル行ってやれ」、「上着を要求されたら下着も」、「右の頬を殴られたら左も」と言う考え方です。それらの背後には激しい怒りと怨念があることが推測できます。
でも社説の下の記事は慈愛に富み、疲れているものを元気付け、奮い立たせる高貴なものを感じさせられました。
2012年1月8日(日)牧師 國枝欣一
正月の新聞にイタリア人の政治哲学者の今の時代をどのように読み解くかという見解が出ていました。今年はヨーロッパやアメリカの政治指導者の改選の年です。政治が経済の実態に追いつかなくなり、貧富の格差がますます広がり、先進国の通貨の信用力が下がるという現象が起きていると言うことが書かれていました。またこうした現象に関して未組織の異議を唱える人々が金融の一大都市ウォール街に繰り出し、社会の変革を要求しているという様なことも書かれていました。
また6日のNHKラジオの朝の番組では今人気が出ている仏像ガールといわれている女性の仏様の話がありました。彼女は専門家である僧侶のような話し方ではなく今日的ことばで仏像を語り、仏教の歴史を語り、本人がそれらの仏像に関してどんな思いを抱いているか述べていました。
前者と後者は一見全く別のことのように見えますが、専門家である政治家、経済学者や宗教家でない人々の語ることばの方が説得力を持っていると言うことを示しています。その人々の語る生活に根ざしたことばが多くの人の心を打ち、動かしているのです。そして人々は、安全と健康と幸せと平安を求めていると言うことが共通しているように思います。
私たちは「新教会」を標榜し、旧教会を乗り越えることを目指して来ていますが、主観的にはそうであっても、実は外から見ると私たちこそ乗り越えられるべき集団になってしまっていないかという危惧を持ちます。「新教会」はチュニジアやエジプトの政権を倒した人々や、ウォール街に集まってテント生活をしているような人々の中や、震災の被災地でボランティア活動をする人々や、教義やしきたりにこだわらない形で心の安らぎを求めている人々の中に起こってきているのではないかと感じます。私たちの有り様を深く考え直さなければならない新年と感じます。させられました。
2011年12月18日(日)牧師 國枝欣一
クリスマスが主なるイエス・キリストの誕生の日と言うことは、異教の日本社会でも誰もが知っていることです。しかしクリスマスはみことばである神が受肉したことを祝っているのだと言うことを知っている人はごく僅かしかいないでしょう。それは「こうして<みことば>は肉となってわれわれのなかに宿られた」(ヨハネ福音書1:14)に由来しています。
<みことば>を通して神なるエホバご自身が、この世に下り、人間になりました。それはイザヤ書エレミヤ書などに繰り返し出てきます。また神エホバご自身が救い主、贖い主と宣言されています。(イザヤ45:21,22、49:26,詩19:14等)その神が人間性をとられたということは、人間を救い、贖うためにどうしても必要なことでした。なぜならば人間に魂と肉体があってはじめて行為ができるように、神ご自身が人間性を取ることによって始めて地獄が存在する最外部(時間と空間に生きている人間社会)に影響をもたらすことができるからです。
主がこの世に来られたのは、<みことば>にあるすべての真理を全うするためでした。私たちが神の像として創られ、基本的に選択の自由と合理性が与えられているのは、<みことば>の真理を受け入れられるようになるためです。(このあたりは「真のキリスト教」第2章を読んでください)ですから主が受肉され、この世にお生まれになったと言うことは、天使の住まう天界と人間の住むこの地上を整えるためにはもっとも適切な方法でした。
それはまさに善き訪れ(福音)でした。クリスマスを祝うこと。それは私たちの中や間にある地獄的なものを追い出すことでもあり、囚われからの解放を意味しています。あたかも自分で努力するように取り組むとき、主からの流入を沢山受けることができます。 メリー クリスマス!
2011年12月11日(日)牧師 國枝欣一
アメリカには新教会の信仰を6世代も7世代も持ち続けている家族があります。それに引き換え日本では4世代キリスト教信仰を持ち続けている家族は数えるほどです。それが新教会の信仰を持ち続けている家族ということになると精々3世代です。アメリカでは代々続いている家族で、何人もの牧師を輩出している家系が幾つもあります。
そうした家族に招かれしばらく一緒に過ごすと、信仰が生活の隅々までいきわたっているのを感じさせられます。野田牧師のSSR時代の同級生だった牧師の家族と夏休みを過ごしたことがあります。その娘と息子が神学生で私と同級だったことがその一因でした。彼らのオハイオの教会でサンクスギビングデーを過したこともあります。
彼らの何気ないしぐさのなかに彼らの信仰を感じました。私たちにこういう伝統がありません。多くの人々が一代目です。個人的なことですが、私も父母は無教会派の信徒でしたし、息子は日本基督教団の教会員です。そうした点では私も平均的な日本人の新教会員 の一人と言っても良いと思います。そして現代のキリスト教会の多くが新教会と同じようなことを考えて実践しつつあります。そうした状況下にあって私たちがスウェーデンボルグ派の教会員であることをどのように示していけるでしょうか。これは私たちにとって大きな課題です。
著作を読んでいればよいと言うことはいえないと思います。私たちはスウェーデンボルグの指し示しているものを読み取りそれを実践していかなければなりません。その時に私たちの信仰は生きたものになり、家族をはじめとして周りにいる人々に福音を語っていけるのだと思います。そうした意味で私たちは教会でお互いから先ず学び合うことが必要だと思います。
2011年12月4日(日)牧師 國枝欣一
今週もまた説教の準備のために"General Index"を使い、Potの"Swedenborg Concordance"を手引きにしながらスウェーデンボルグの著作をあれこれひっくり返して読んで説教の準備をしました。これはこの17年間一貫してやってきている私の重要な仕事です。牧師として当たり前じゃないかといわれればその通りです。またスピリチュアルケアの教育機関であるホライズンセンターでは「神の愛と知恵」をテキストにして半年間40時間かけて何回も講義をしています。この準備のために繰り返し著作を読み返します。また関連箇所を調べます。
でも同時に私は学生時代的に、荒井献、新見宏、高尾利勝、田川健三、八木誠一と言った神学者の人となりにじかに接触して信仰訓練を受けたことも一再ならずあって、その影響は現在も確実に私のなかにあると言わざるを得ません。そして私にとってスウェーデンボルグ神学と相矛盾するものではなく返って私の神学を豊かにするものなのです。
この地球上に「イエス伝」と言う著作がごまんとあってそれを全部並べると地球何周分にもなると読んだことがあります。それが真実かどうかは別にしてもとにかく沢山あると言うことでしょう。このイエス研究が始まったのは18世紀後半にドイツで始まったと言われています。それは「聖書のみ」「信仰のみ」というプロテスタント主義の伝統と「啓蒙主義」の影響から生まれたそうです。
スウェーデンボルグの著作が書かれていたのはそれより100年前、宗教改革からほぼ100年後です。方向性は真反対ですが、その行き着くところは大筋で同じような感じがします。歴史の中に存在したイエス像を求めることは、「私」と言う個人の中で働かれる「主」をイメージすることに大いに役立つと思います。偏見を持たずにそうした見解に触れてみることを薦めます。
2011年11月27日(日)牧師 國枝欣一
新大陸と呼ばれるアメリカはキリスト教国と理解されていますが、1930年代のクリスチャン人口は30%台だったといわれます。それが60%代になるのは1950年代です。そして沢山の宣教師を世界に送り込みます。アメリカは、プロテスタントの国です。カトリックが支配していたヨーロッパを抜け出し新天地を求めて脱出してそこに神の国を建てようと目指してきた人々によって町づくりがされました。スウェーデンボルグ派もその流れの中にありました。ヨーロッパで住み難さを感じていた人々がアメリカに来たのです。
ヨーロッパでは一般的にカトリックが保守的でプロテスタントは革新的ですが、アメリカではプロテスタントが先に来てカトリックは後から来たということもあって、プロテスタントが開拓時代大きな土地を取得し大農場を経営するなどして、保守的で、カトリックは後から来たために都市部に住まわざるを得ず、低所得者であったため革新的という面もあります。
ファンダメンタルという言葉は原理主義と一般的には訳されていますが、アメリカにもキリスト教原理主義者がいます。欧米ではその原理は聖書です。聖書にこう書いてあるということがものすごく力を持ち、人々の生活に影響を与えます。この原理主義の利点は原則がはっきりしており答えは常に原則に戻れば出るということです。考えなくても良いので悩まないですみます。
スウェーデンボルグ派にも原理主義的な人々がいます。それがコンベンションとジェネラルチャーチとの分離を生みました。一見著作に忠実にと見えますが、大きく時代を俯瞰してみると私たちも時代の流れに逆らうことはできないのだということがわかります。現実を直視しつつ苦しみながらあるべき姿を求め続けること、それが大切なのだと思わされます。主はそうされてきたことを思い起こしました。
2011年11月20日(日)牧師 國枝欣一
先週、少し古い本ですが、山本七平の「聖書の常識」と「日本人と聖書」を読みました。これらは私たちの聖書理解の対極にあるような本に分類できるでしょうが、だから読まなくて良いと言うことにはなりません。わたし達日本人とは全く異なった文化背景があったり、歴史背景があったり、価値体系の違いがあるなかで生まれたキリスト教ですから、それらを理解して聖書をみ言葉として読む必要があります。
私たちは文字上の意味と同時にみ言葉の内的意味を把握しようとしますが、そのとき手助けとなるのがスウェーデンボルグの著作です。しかしこの著作を読む時も、スウェーデンボルグがヨーロッパ人で、白人で、貴族階級にあった人であるということを理解して読むことが必要です。彼が霊的経験をしてそれを著作に著しましたが、言語化する過程で、上述のようなことが無意識に入ってくるわけです。その影響は免れることがありません。
聖書に関する学術研究はものすごく進んでいます。これらの研究から様々なことが分かってきています。2000年前3000年前の様子が分かり、人々の考え方が分かってくるとみ言葉の内的意味も今まで以上に良く判り、正確に理解できるようになります。
ジョージ・ドール先生はかって授業の中で「現代の聖書に関する研究は、聖書全体との関連を見失わない限り、最終的にはわれわれの霊的解釈と一致する」と言われました。その通りです。なぜ預言者があれほど力を持つのか、イスラエルの王達が預言者に批判されることでへなへなと崩れる場面があちらこちらに出てきます。契約という概念も私たちが通常使う概念と違います。それらはスウェーデンボルグの著作だけを読んでいるだけでは分かってこないところです。上記の本はそうした点で目からうろこを体験させられた本でした。教会にあります。
2011年11月13日(日)牧師 國枝欣一
ユダヤ教があって原始キリスト教団は生まれました。カトリックがあってプロテスタントが生まれました。カトリックがあり、プロテスタントの諸教会があって新教会は誕生しました。すなわちこうした諸教会が無かったら新教会は生まれなかったのです。スウェーデンボルグの著作の中には確かにカトリックや、プロテスタント諸教会を批判的に書いてある箇所があります。これらの箇所をよんで「だから○○教会はだめだ」と言うことは注意しなければなりません。そう批判するならば、それらのことを自分で良く観察してから批判すべきです。
スウェーデンボルグの他教会批判は300年前のことです。その間に教会自身も変化してきていると思いますし、神学も、聖書研究も進んできています。知らないことに関しては謙虚であるべきですし、知る努力をすることでわたし達は差別から開放されます。そして信仰の真理に立つことができます。その信仰の真理は善と愛に裏打ちされたものに必然的になりますので、わたし達は優しくも成れます。(AC6707)
新教会の成立のためには旧教会が必要でしたし、ユダヤ教も古代教会も必要でした。それは過去の出来事ではなく、現在のわたし達の霊性の発達のためにも必要なことだとわたしは考えます。教会の発展はわたし達の霊の成長の過程も示すと考えるならば、そこに必然も見出せるでしょうし、感謝も見出すことが可能だと思います。
また個別教会としての東京新教会も中渋谷教会があってのことですし、戦争で焼け出され転々とする中で多くの人々の善意と熱意があって今日があると思います。そこには、私たちが旧教会と言っている人々の援助もありました。そうした中で東京新教会があるのです。そうした援助や働きを正当に評価すべきと思います。
2011年11月6日(日)牧師 國枝欣一
スウェーデンボルグは神秘主義者といわれることがあります。確かに彼は自然界と霊界を自由に行ったり来たりできました。そして失せ物探しや透視をしたり、歴史上の人物が霊界で今どうしているかなど知ることができました。しかし彼自身こうした能力を人々に吹聴し、誇った形跡はありません。彼はこれらの能力を付随的なものとして高く評価はしていませんでした。彼が後半の人生を費やしたのは聖書の霊的な意味を明らかにし、正しいみ言葉理解を伝え、教会を改革しようと、霊的な解釈のための著作を印刷出版していました。
わたし達の多くが自分の霊的経験からスウェーデンボルグに惹かれたと言うことがあるかもしれません。しかしその経験にばかり囚われていると私たちの霊的成長はかえって阻害され、悔い改め、自己改革、再生ということが起こりにくくなります。これらは換言すれば自己を手放すことですが、経験に囚われているとそれができないのです。
21世紀に生きるわたし達に必要なことは、スウェーデンボルグが指し示してくれている世界を生きること、またはそこに向けて自分の生活を作っていく努力をすることではないでしょうか。そうした生活を創り出す努力をする中で、わたし達は自分の役立ちをもっと深く意識し、責任を果たし、人々とつながりを持てるようになります。そこに新教会という新しいコミュニティーができるのではないでしょうか。
自分の経験ばかり話していると相手の言うことが聞けません。相手を聴けない自分を意識することが大切です。それは相手の中に働いている「主」を聴いていないことでもあるからです。霊的経験はわたし達にとって大切なことです。その時こそ「主の」みこころが何であるのかじっくり自分に問うことが大切です。それは自分の内なる「主」のことばを聴くと言うことでもあります。
2011年10月30日(日)牧師 國枝欣一
旧約の神は怒りの神、新約の神は愛の神と言われる時があります。確かに旧約聖書を読むとイスラエルは何度も神を無視し、離れ、それゆえに疫病が流行ったり、戦争に負け、敵に支配されたりしています。確かに神は怒り、イスラエルを罰しているように見えます。
しかしスウェーデンボルグは、神は一貫して愛の神だと主張します。そして怒りの神というのは見え方の問題だと言います。悪いことをした子供の親はしばしばその子供をしかるが、親は子供を愛しているではないかと言った例をあげます。子供からみれば怒られたように感じるが、親は一貫して子供を愛していると言うわけです。
また人は罪を犯せばその犯した罪が罰として本人を苦しめるので罪と罰は一体だとも言います。具体的には何かを盗んだとすればそれが何時発覚するのではないかと恐れること、その状態が罰が下されていると言うことだという訳です。ですから神が罰を下すのではなくその人の霊が悪霊と交わることで、悪霊によって苦しめられることによって罰の状態が起こってくるわけです。他人を恨めば、恨むという私の意識が私自身を苦しめます。怒りを感じればその怒りがわたしをくるしめます。その状態は心の柔軟性を欠いて、あることに固執している状態です。
心のやわらかさを取り戻し、思い込みから離れ、視野を広げることができる時、そこに流入が働き、あがなわれ、自分を改革でき、再生が可能になってきます。自分自身の行いを振り返り、罪と罰を自覚し、容易にそこから脱することができない自分を認めた時、私達は助けを主に求めます。その時から私達は悪から離れ、自己改革に取り組み始め、再生への道を歩み始めます。そこに旧約の大昔から変わらぬ愛を持っておわします主イエスキリストなる神が立ち現れてきます。アーメン
2011年10月23日(日)牧師 國枝欣一
「仕事」は古来から手から手へ渡され、引き継がれてきました。それは洋の東西を問いません。牧畜業、土木業、農業、生産業、商業、どの仕事をとっても、父から子へ、師匠から弟子へと言うように引き継がれていきました。引き継がれることはその業に関する技術的なことにとどまらず、生活全般に渡って手渡されていきました。この手法は人類発生以来、近代に至るまでそうでした。しかし教育が個人から国によってなされるようになった近代に入ると、この手から手へ受け継がれていった仕事は教育機関が推し進めるようなってきました。
生業(なりわい)とは古くは「五穀が生(な)るように務める業」ですが、そこから転じて職業をも意味するようになりました。近代化が推し進められるようになって、仕事が分解され、経験が無くてもできるようになり、仕事は収入を得る手立てになってしまいました。そうなると生活をつかさどる価値観とそれを実現する匠の技は衰退していきました。技術と生活の分化が起こってくるわけです。
宗教も哲学も古くは師匠、先生と生活を共にすることから弟子へと伝えられていきました。ですから信仰はそのまま生活でもありました。現代はどんなことも情報を通して入手できる便利な時代です。このことは私達の生活を豊かにした面は確かにありますが、長い年月をかけて手から手へ伝えられてきた生き方の真髄は伝わりにくくなっているとも言えそうです。
Religion(宗教)という言葉の元の意味は「再び」と「結ぶ」という言葉からできているそうです。それは「神」「主」「師匠」との関係を再び切り結びなおすということです。そして師と仰ぐものから手渡されるものを受け取ると言うことです。この人類の知恵を大切にしたいものです。
2011年10月16日(日)牧師 國枝欣一
「仏法の教えは、相反する二つを離れて、それらが別物ではないと言う真理を悟ることである。もしも相反する二つの中の一つを取って執着すれば、たとえ、それが善であっても、正であっても、誤ったものになる。」これは仏教の古いお経の中にある一節です。これは「中道」の大切さを説いたものですが、「中道」の「中」とは両方の極端を離れた自由な立場であり、両方の中間と言うことではありません。両極端を超えることであり、そこに創造性と独自性を開くということです。ちなみに「道」と言うことは実践であり、方法のことだそうです。「二つ」とは苦行と快楽です。善を求め、悟りを求めて苦行することも、快楽に溺れることもだめだと言うわけです。
スウェーデンボルグは、悪を避けなさいと繰り返して言います。決して悪と戦いなさいとは勧めていません。また人里はなれたところで修業をするようなことも、霊的成長には良くないと言っています。人々の間で市民生活をしながら、それぞれの役立ちを果たしていくことの大切さを述べています。
ということは、「中道」をスウェーデンボルグもまた勧めていると言ってよいと思います。事実彼の生涯もまたスウェーデンと言う国の発展のために鉱山局の監督官として働き、議員として法律を作り、学問水準を上げようと学術誌を発刊するというような仕事をしてきました。そして貴族でありながら質素な生活をして生涯を送りました。
私たちは歴史上かって無いほどの豊かで安全な社会に暮らしています。それを心から感謝して、物質主義に溺れることなく、自分の役立ちを発見して、人々と主に仕えて行く生活を作る努力をしたいものです。それを仏教流に表現すれば、「中道」をとると言うことになるのではないでしょうか。
2011年10月9日(日)牧師 國枝欣一
「二人の主人に仕える事はできない」(ルカ16:13)と聖書にありますが、現実の生活を振り返ると矛盾無く二人の主人に仕えていることは多いのではないでしょうか。封建時代には藩主に仕え、一家の家長に仕えることは当たり前でした。キリスト教徒はイエス・キリストを主と告白したものです。こうした人々の中でこの世の主人に仕えて立派な仕事を為した人々は沢山います。
この世のルールに従い、隣人のために働くということはごく普通で正しいことではないかと思います。と言うことは私達の信仰において、広い視野に立ち今まで学んできた様々な知識や知恵を駆使して課題に立ち向かうことは必要であり、かつ妥当なことです。この世の知恵を無視してよいと言うことはありません。
宗教はこの世があると同時に霊的な世界があり、この世の源はすべてあの世にあると言うことを教えてくれます。従って宗教は私達の霊的成長を援助するものです。その霊的な成長は日々の生活の中に現れてきます。ですから神学や教義の問題で対立したり喧嘩になったりすることは馬鹿げたことですし、自らの霊的成長を阻害することです。
歴史的に見ると宗教が発端となって戦争になり、多くの人々が犠牲になった事例が沢山あります。しかしそれらは良くみると経済的な権益を自分に都合よく守ることであったり、他民族を都合よく支配することであったりしています。スローガンとして大東亜共栄圏や八紘一宇を唱えて太平洋戦争に突入したのは私たちの国です。一人一人の信仰を生活化する中でその輪が世界平和に繫がって行くのではないでしょうか。その時主に仕えるということが大きな課題となります。
2011年10月2日(日)牧師 國枝欣一
教会の庭に出るときんもくせいの花の香りが漂ってきます。あの暑かった夏が終わり、秋が来たと季節の移り変わりを感じます。彼岸花も色々なお宅の庭に咲いているのを見かけます。今年もたくさんの方々が災害や事故で亡くなりました。また今も地域の復旧、復興のために厳しい環境の下で不眠不休の働きをしてくれている人々がいます。
この災害や事故から 立ち直る日がやがて来るだろう私たちは心のどこかで思っています。何がそう思わせるのでしょうか。先の大戦からの経験からそう思うのでしょうか。そう思ってみてもあまりピンと来ません。もっともっと前からの私たちに刷り込まれている何ものかがあるような気もします。
それは記憶、経験とか心理学的なものではなく日本人の霊性のようなものの中に働いている何かのような気もします。日本人に共通な霊的な何物かを感じさせられるのです。
スウェーデンボルグは「コナトゥス」という言葉を使っているのですが、この言葉を日本語では「推進力」とか「努力」と訳しています。この概念は理解することが難しいのですが、(少なくとも私にはそうでした)、私は解剖されている人間の内臓を見たときにそれが分かったような感じがしました。体内には実にたくさんの別々の働きをする臓器があります。しかしそれぞれの臓器はその個性を完全に発揮しつつ他の臓器と協調して働いた時に私たちは健康になります。そのようにさせる力をコナトゥスといいます。それはすべてを霊的な力で生かす力です。
そのような力を私達は恵みとして頂いており、季節が変わっていくように、この未曾有の災害に対しても、私たちがさらに成長できるようと試練がここに置かれている様な気になるのです。
2011年9月25日(日)牧師 國枝欣一
震災、津波、原発事故、台風と災害が続きます。ひとつの災害の上にさらに次の災害も受けている方々を思うと心が痛みます。台風による土石流によってせきとめ湖ができたところでは、この台風でこのせきとめ湖が決壊するのではないかと不安に思います。 私達の人生には思いもかけなかったことが起こります。災害ばかりではなく、生老病死は私たちの大きな人生の課題です。
私たちがこの世に生まれてくるのはなぜなのか。どうしてこんなに大きな苦難を受けなければならないのかしばしば立ち往生してしまいます。そして悶々とします。この状態を私たちは試練と呼びますが、その試練の先に平安があると学んでいます。そしてその苦難や試練には意味があると考えます。試練の最中にそこに意味を見出すことはなかなか困難です。
困難ではありますが、それを知っているとその試練や苦難を耐えやすくなることは事実です。夏の酷暑は耐えがたいものです。特にその最中は余計にそうです。しかしやがて秋が来るということを知っている私たちは皆その暑さを耐えます。
霊的な成長にあっても同じです。先が見えていると信じることでその試練に耐えることができます。その先に平安があると信じられるからです。そして試練は私達の愛を育むものです。そしてその愛は私達の<いのち>の中核を成すものです。と言うことで私は自分の愛を成長させるためにこの世に送り出されたです。試練や苦難は私たちへの霊的な成長のための神からのプレゼントなのです。
2011年9月18日(日)牧師 國枝欣一
「愛」と言う概念をスウェーデンボルグは広い意味で使っています。一般的にはギリシャ語から愛をアガペー(隣人愛)、フィリア(仲間への愛)、エロス(所有する愛)の3種に分けますが、彼はそれと違って、自己愛と世間愛、隣人愛と神への愛、天上の愛と地獄の愛というように分けます。また支配欲、所有欲などの欲望、それから動物などが持っている本能等も、「愛」と言う形で呼んでいます。
人間には 肉体的な愛があります。食欲、性欲、睡眠欲などはみな健康維持と子孫繁栄の善を追及する愛です。私達の持っている五感にもそれぞれの欲求を満たす愛があります。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚と言った感覚にはそれぞれ特有の快感や満足感、充足感があります。また感覚から精神にいたる領域で働く愛もあります。名誉、財産、幸運、娯楽、富、地位などを求めていく愛です。これらは「自然的愛」と言われますが、人が地上での幸福を求める愛で、目的によって善にもなり悪にもなります。
「霊的愛」とは、隣人愛とか神への愛のことですが、教会への愛、天界への愛、主への愛はより一層霊的です。このようにスウェーデンボルグが言う愛は最高度の「愛」を頂点として底辺的な欲求をも全部愛という表現をしています。
人の死後、本人に残る<いのち>の中核は、その人の愛です。その愛の形でその人の行く天界の社会が決まります。そこがその人の愛にぴったりしたところだからです。今生きている私たちは、自分の愛の傾向をよく吟味してみる必要があります。
「新教会用語集」アルカナ出版長島達也著より
2011年9月11日(日)牧師 國枝欣一
安息日を守るという戒めは十戒の3番目に出てくる戒めです。これは創世記の天地創造の過程を見てすべて良い判断された神が7日目に休まれたというところから来たもので、それにちなんで仕事を一切しないで、静かに神と私との関わりを見直す日とされ、そこから日曜日には礼拝を守るという考え方が生まれてきました。これは聖書の字義通りに解釈することから生まれてきた考え方です。間違っているわけではありませんが、そこに霊的な意味を見出すともっと違った側面が見えてきます。
天界の秘儀 9274には「善によって導かれるとは、主によって導かれることです。この状態に至った人は、天界とその平安の静謐の中にいます。この状態は、『七日』『安息日』によって意味されます。」とあります。仕事や人間関係に忙殺され休みも取れないと言う人にとっては、この『安息日』の訓練は重要になります。心を静かにし、みことばを聴き、神との関係を結び直す事は、私たちが本物の人間になると言うことです。
それは個別の教会の日曜ごとの礼拝を守るということにとどまりません。週日であっても、一日の中で静かな時を持ち、自らを振り返り、主と自分の関係を見直し、善なる生活を欲する時に、私たちは心穏やかになり、平安のうちに日々を送ることができると言うことです。主によって導かれる日を送ることができるということです。
ですから日曜日に礼拝を守るということは大切ですが、それを超えて、主に導かれる日々を過ごす為には、主とのつながりを意識する時を持ちなさいと言う薦めです。
2011年9月4日(日)牧師 國枝欣一
聖書には主が人を癒す場面がいくつも出てきます。それは主は肉体の面でも、すなわち自然的な面でも、霊的な面でも救い主だと言うことです。ここに私達の信仰が知的になってはならないという主のメッセージがあるように思います。
歴史的にはユダヤ教会を改革しようと思った人たちがキリスト教会を誕生させましたが、それは律法が人々の命を育てる方向にではなく縛る方向に向いてしまった結果、それを本来の信仰の形に戻したいと思った人々の結果でした。
イエス様は救い主として、自然的な病気、障害を持った人々を何人も癒されています。それを奇跡と私たちは呼んでいるのですが、それぞれの病気や障害に霊的な意味があり、かつその患った期間にもその人が置かれた霊的な状態があるということが分かると、そこに神であるイエスキリスト深い私たちに対する愛を感じます。
健康を与えられている私たちは霊的に健康と言うわけではありません。私たちも霊的には罪深い存在です。それは誰でも自分を振り返ってみればわかることです。外的なものはいつも内的なものからの流入を受けて存在するわけですから、罪深い私が今健康を与えられていると言うことは、そこになすべきことがあると言うことです。
それが何なのかをみことばである聖書をよく読みこんだ時、主が私達の進むべき方向を示してくださると言うことが起こります。それが信仰の生活化だと私は考えています。
2011年8月28日(日)牧師 國枝欣一
人がもし天地の神にましますそのお方を仰がないなら、天界に入ることはできません。なぜなら天界とはその唯一なる神にもとづくもので、そのお方こそ神であるイエス・キリストです。そのお方は永遠からの創造者としての主エホバであり、時間の中ではあがない主、永遠にいたるまで再生を働きかけられる主です。また同時に、父であり、子であり、聖霊です。これこそ福音であり、宣教のメッセージなのです。 新教会教義サマリー119
父なる神、子なるイエス・キリスト、そして聖霊はキリスト教徒にとっては忘れてはならない中心です。この解釈に様々あるわけですが、私たちは、これを一人の人間における意志と理解と行為という比喩を使って理解します。意志はその人の愛の傾向を示すわけですが、何かを為す時にはその理由付け、すなわちその人の理解があります。その理解に基づいて一つの行為が為されるわけですが、意志する人も、理解をもつ人も、行為をする人も全部同一人物です。ですからイエス・キリストを信じることは神を信じることなのです。それを徹底して言い続けているのが新教会です。
その主なる神であるイエス・キリストが私たちにいつも働きかけておられるのです。その働きを感じてちょっと立ち止まり、ありのままの自分を見つめてみることで、そこに働きかけを見出せるのです。その結果私たちは天界に招き入れられるようになります。頭で考えることではありません。感じることです。こうした時間を意図して持つことが、安息日を守れと言う戒めの中味です。そしてそれが天地の神にましますそのお方を仰ぐことにつながります。頭の信仰から生活の信仰へ、すなわち生きた信仰を持ちたいものです。
2011年8月21日(日)牧師 國枝欣一
心理学でいう「気づき」は 宗教やスピリチュアルな領域では「悔い改め」とか「回心」といいます。この「気づき」「悔い改め」「回心」は突然生ずることもありますが、多くの場合自分の内面を見るということからおきます。
ところが、最近自分を見つめる、内省することを殆どしたことが無いと言う人々によく出会います。そうした人々は常に自己正当化をし、合理化し、他人を攻撃、批判し、被害者意識をもちます。自分の課題に目を向けようとしないため、いつも不満であり、不幸です。これらは物質主義社会の中で起こってくる私達の病のような感じがします。
私たちは人類史上経験したことのない豊かで安全な社会に住んでいます。それは真に感謝なことなのに、私たちはもっと豊かになるようにとさらに物を求めます。自分の置かれた場所でどれほど豊かなものが与えられているか見ようとしないため不足感から抜け出ることができません。そして考えることは自分のことばかりです。他者との真の結びつきを忘れています。そこに神が生きて働いていることを見出すことができません。
今自分に与えられていることに気づけると感謝の念が湧き、喜びに満たされ、与えられている自分の能力を生かすように何をすれば良いのか分かってきます。老人には老人の、若者には若者の役立ちがあります。
それを発見することは、自分を見つめることから生じてくるのではないでしょうか。、発見できることによって、私たちは神の存在を自分の近くに感じ、自らの行動も変化すると思います。パウロの回心はその典型です。
2011年7月24日(日)牧師 國枝欣一
「彼女は私の心臓ですが、私は彼女の肺臓です。心臓は愛を表し、肺臓は英知を表しますから、彼女は〈私の英知の愛〉であり、私は〈彼女の愛の英知〉です。ということで、彼女の愛は私の英知を外側から包んでいるのに対し、私の英知は、彼女の愛の内側に内在しています。したがって、あなたが言われたように、私たちの顔には魂の一体化が表れているのです。」結婚愛75(黄金時代)
この一文はスウェーデンボルグが最古代の夫婦に出会った時に、最古代の人が応えたことばです。二人がお互いを尊敬しあっている時に出てくることばでしょう。私の英知の愛ということは真理の実現のための努力は自分のための努力だけでなくそれは彼女のための努力でもあるということでしょう。また彼女の愛の英知とは、パートナーの愛の行為は彼の真理への熱情が背後にあるということです。ですから日常生活の行為はそれぞれ別の形をとっていても二人が願う究極の思いはひとつということになります。
「彼女の愛は私の英知を外側から包んでいるのに対し、私の英知は、彼女の愛の内側に内在しています。」というような愛の関係にあるカップルは、現代では無いとスウェーデンボルグは言っていますが、離婚率が高まっている我が国ではそれぞれが心臓であったり肺であったり個性的な存在でありながら、なおかつ一致する関係を見出すことはなかなか困難のように思います。
2011年7月17日(日)牧師 國枝欣一
自己愛とは、自分ひとりの幸福を願うことです。他の人たちの幸福を考えたにしても、それは自分のためです。教会、祖国、人間関係、あるいは同胞市民のためと言っても同じことです。その人たちのことを思ったにしても、ただ自分の名声、名誉、栄光のためです。他の人のためにする善益の中にそれが見出せないとき、心の中で、『いったい何のことだ。どうして自分がやる必要がある。わたしには関係ないことだ』と言わんばかりに、それを無視します。したがって自己愛のうちにある人は、教会も祖国も社会も同胞も愛していないし、その善益をも愛していません。愛しているのは自分ひとりです。(新エルサレムと天界の教義65)
「自己愛とは、自分ひとりの幸福を願うこと」というのは新教会に属している人であれば誰でも知っていることです。しかし下線部分になるとちょっと複雑になります。教会、祖国、同胞市民のためと思っていると自分の自己愛に気づかないことがあります。今の国会での政党間のやり取りを見ていると「被災地にお住まいの方々」とか言いながら結局は自己愛の塊のような人ばかりという感じがします。現場で汗水たらして復旧、復興に取り組んでいる人々がたくさんいる一方で、党利党略ばかり考えているような感じがするのです。これらを他山の石として私たちはそれぞれ自分の内部に隠された自己愛がないか見つめて行きたいものです。
2011年7月10日(日)牧師 國枝欣一
2週間続けて看護学校の合宿研修を行いました。だんだん若者たちは自分の内部を見ることが下手になっているように感じます。40年以上も自分を見つめ続けている私にとってちょっとした驚きなのですが、悩みを抱えていてもそれを自覚したり、それと取り組むことをしないで大人の入り口まで来てしまうようです。ただただ重い気分でそれをどのように扱ったらよいか分からずに来てしまう若者が多いように感じます。
開けたらどうしようもなくなるパンドラの箱を抱えているようです。また相談事を友人から受けると必ず良い解決策を提供しなければならないという強迫観念のようなものを抱えている若者も多いように感じます。よいサジェスチョンができないと悩んでいる若者もまた多いのです。
聴くということはパワフルです。それは本来神の声(みことば)を聴くという意味があるからです。神の似姿としての人間は解決策を本人がすでに持っていると考えます。そして事実そうです。ですから本来神の様にじっと聴くということはできないことではないのです。自分の内部を見つめるということは霊的な自分を知るということであり、私の中に住まわれている神のみことばを聴くということにつながるのですが、今の若者の大部分は聞くことを恐れ、結果として自分の苦しさの中であえいでいるという悪循環に陥っているような気がします。この人々にみことばを伝える大きな使命を感じます。
2011年7月3日(日)牧師 國枝欣一
「冒涜」に関して新教会は特別な考え方をすると思います。広辞苑によれば「冒涜」は「神聖、尊厳なものをおかし、けがすこと」とあります。冒し汚すものを私たちは一般に他宗教のもの、神聖なものに関する無理解なものと考えがちです。しかし新教会では外なるものではなく内なるものであるクリスチャン自身が「冒涜」する主体だと考えています。
この観念はとても重要だと思います。なぜならばこのように考えると私たちは自分の言動に注意深くなれます。言動に注意深くなるということは自分の内部人間をよく吟味することと同じです。内部人間とは霊であり、心理的には意図、欲求、願望、動機などということに関連しています。自分が霊であることは気づかないのですが、意図、欲求、願望、動機などは本人が自分の内部に目を向けようとしさいすれば確認可能です。
新教会の教えを知っていても、それを生活化していなければ、それを大切には思っていないことです。愛しそのように行うことができていないということは、「冒涜」していることになります。とすると私たちは今まで以上に自分に謙虚になる必要があります。真に主を愛することができるように、他人を批判する前に、深く自分を見つめることができるかどうかが鍵になりそうです。
2011年6月26日(日)牧師 國枝欣一
私たち新教会に属するものは信仰が本当に私たちを生かすものだと先週改めて思わされる経験をしました。聖書、みことばには文字上の意味と共に霊的内的意味があることがそれの中心になるのですが、カトリックや旧教会の信仰は、宗教がしばしばそこに属するものに霊的な苦悶や悩みを生じさせるということです。それをスピリチュアルな痛みといいます。
今日しばしば原理主義という言葉に私たちは直面します。原理主義というのは経典に書かれていることを言葉の意義どおりに理解するということです。それはどの宗教にも思想にもいえることです。クリスチャンは時々自分の意見の正当性を主張するために「だって聖書こう書いてある。」といいますが、それは何も言っていないと同じことです。
また聖書の霊的意義を主張する私たちも、時々聖書の高層批判的な研究を全面的に否定して「こうした研究が信仰をだめにした。」というようなことを言う人がいます。これも短絡的といわざるを得ません。前者も後者も自分の解釈する姿勢に気がついていません。この解釈する自分を吟味することなしにみことばを口にすることは、神のみ名をみだりに口にしてはならないということ戒めを犯していることに気がついていません。300年前に書かれた著作を金科玉条のごとく口にするものはスウェーデンボルグを神にしてしまう危険性の中にいることに気づくことが必要だと思います。
2011年6月19日(日)牧師 國枝欣一
「神の愛と知恵47」には愛が結びつきであるということが書かれています。夫の妻に対する愛でも、親の子供に対する愛でも、あるいは仕事仲間への愛でも、振り返ってみると確かに「結びつき」だと感じます。愛していれば愛する対象を深く知りたいと思いますし、その対象が喜ぶことを共に喜ぶということが分かります。
その対象が人であれ、物であれ、事であっても同じです。私たちの多くは趣味を持ちますが、その趣味に関して、エネルギーと時間とお金を費やします。費やしてそれに関して詳しくなります。対象に関して詳しくなるということは、その人の愛の傾向(情愛)を示すといってよいでしょう。
私の友人の一人にオペラが好きという人がいます。オペラがあるとチケットを買い、聴きに行きます。国内だけでは足りずヨーロッパまで休暇をとって行きます。また自宅を建て替えたときには地下室を作り、音楽を聴くための部屋を作りました。決して金持ちではありませんがそのことにエネルギーと時間とお金をつぎ込んでいるのです。
ここからも推測できるように、主への愛、隣人への愛はそこへ私たちのエネルギーを注ぎ込むときにしか起こらないことがわかります。地上にあるもののすべては相応という形で霊の世界と結びついているというのがスウェーデンボルグの見解です。私たちの愛の傾向は私たちの意識であり、愛の形であり、<いのち>なのです。執拗に祈るということは、祈ることに時間とエネルギーを使うことです。それが私たちの<いのち>になるように祈ることです。そのとき、主との結びつきが強くなります。
2011年6月12日(日)牧師 國枝欣一
「天界の秘儀」6280に「主は、人間性を神性化されることによって、人をあがなわれました。つまり人を地獄から解放されました。従って、主はご自身の神人性の面から見て、あがない主とよばれます。」とあります。「あがない」という言葉は一般的な言葉ではなく、宗教的な言葉です。「あがなう」とはお金を払って救い出す、買い戻すということです。
主がご自身の命を差し出すことで私たち人間を地獄から救い出されたということですが、そう考えてもちょっと抽象的で頭で理解するだけになってしまう人も多いのではないでしょうか。
昨日まで5日間、哲学的人間論という講座を担当していました。その中に半年ほど前にお会いした女性がいました。虐待と暴力の中で育ち自殺を何回となく計り、今日まで来たそうです。その方の表情が今回は以前とまったく変わり穏やかな表情になり、ふくよかさと優しさが漂っていました。何か大きな変化がこの間にあったのか尋ねてみると、「半年前の講座に参加したことが大きかった。」と言っておられました。それまでは人と距離をとり親しくなると言うことはほとんどなかったそうです。主がその彼女を「あがなわれた」のです。その結果長い期間苦労していた母子関係も気にならなくなってきたとも言っておられました。
主の「あがない」は彼女がそうであるように、自らがそこで起こっている事態を違う角度から見るということによって起こり、全く主体的な働きのように思えますが、そこに主の流入を感ずる心の目を持つことで私たち自身の生活が変化します。そこに感謝の気持ちを持てると主の「あがない」が実感できます。それは知的な理解と全く違います。
2011年6月5日(日)牧師 國枝欣一
スウェーデンボルグの著作の中に「神の愛と知恵」があります。この著作は普遍宗教的な著作だとよく言われます。その47節に以下のようなことが書いてあります。
「愛自体は、自分を愛するのではなく他者を愛すること、そして、愛を通して他者と結びつくことです。愛自体はまた、他者から愛され、結びつけられることです。どんな愛でも、その本質は結びつきです。あるいは<いのち>です。それはうれしさであり、愛らしさであり、楽しさであり、うるわしさであり、至福であり、祝福であり、幸福です。」
これがひっくり返ると、愛自体は、他者を愛するのではなく、自分を愛すること、そして愛を通して他者を支配することです。他者からあがめられ、賞賛を与えられることですということになります。前者は隣人愛であり、後者は自己愛だいうことはすぐお分かりいただけると思います。
読めば簡単に分かりますが、それが自分のこととなるとなかなか分かりにくいのです。なぜならば愛することはその形はどうであれ私たちは日常的にやっているので、それが習慣化し癖になっているので、自分を深く点検しないと分からないのです。一人静かに瞑想すること、祈ることは自分を点検することでもあります。その時に私たちはそれと意識できませんが、主からの流入があります。共に礼拝を守るということは、愛することを学び、主との関係を結びなおす時です。自分の愛を点検し、実践してみる場です。聖餐式に参列して主と私の関係を振り返りましょう。
2011年5月29日(日)牧師 國枝欣一
先週一週間、主の業についてあれこれ読んでみたり、考えたりしていました。当然のことですが、主の業は例外なく常に主の意志に伴ったものです。またそれは同時に受け手の側の信仰を通じてなされるものです。それがはっきり示されているのが会堂司ヤイロの娘が生き返る話、長い間出血に苦しんだ女性の話、100人隊長の僕の話などです。
それらの話から透けて見えてくるものは、私たちの信仰の有り様が常にそこで試されるということです。ヤイロはともかく、病気を患っている女性にしても、異邦人である100人隊長にしても単純で明確な確信(信仰)を持っていたということです。この単純明快な信仰は教義を細かいところまで学んでいるという形とは違いますが、頭の理解でなく生活化しているところ、すなわちその人の意志になり、それが行為となって現れているところに特徴があります。私たちの信仰が生活化しているか、問われているのです。
そして善きものはすべて主から来る、主からしか来ないということを実感として体験していることが欠かせません。こう感じられて生活をしていると、自我が動かず穏やかになれます。私たちにとって自我を捨てることは容易ではありません。しかし聖書をみことばとして読み込んでいくと、全存在の支配者は主だということがだんだん分かってきます。それが分かってくると、私の中の傲慢さが少しずつ小さくなっていくような感じがし、生活が楽になってきます。ありがたいことです。
2011年5月22日(日)牧師 國枝欣一
先週の礼拝後の総会は主の存在を実感させられるものでした。この数年間は今まで教会を支えてきた会員の方々がリタイアし、老齢化して教勢も衰えていくばかりでした。役員の中には自然消滅して行くのではないかという言葉さえ出てくるような実態でした。一時は教会の年間予算が400万に届くのではないかと思われていましたが、それも近年は200万円台にまで小さくなってきていました。
ところが昨年度後半から礼拝出席者が増えだし教会の人間関係も生き生きしたものになってきました。HPを見て来てくださった方、ゼネラルチャーチの集会に出ていた方、幾つかの教会を見てご自身でこの新教会を選んだ方、ホライズンの講座に出ていて礼拝にも来られるようになった方、葬儀に関わらせていただいたことがご縁になった方、みなさんそれぞれのきっかけで一様ではありません。主の用意してくださった様々な回路を通じて来て下さるようになりました。
根気強い種まきの必要性を改めて思いました。その収穫期は主の時によるわけで、私たちにはそれが見えていません。信じてし続ける時にその努力が報いられるときがあるのだと思います。それが私たちの生活になり、し続けることでそれが私たちの<いのち>になるのだと思います。霊的に再生する道が用意されているのを感じます。ありがたいことです。
2011年5月15日(日)牧師 國枝欣一
先週の礼拝後、5人で昼食をとりました。とてもすがすがしいお天気の日だったので食後近くの真言宗のお寺に行きお庭を拝見させていただきました。シャクヤクも藤ももう終わっていましたが、緑豊かなお庭をめぐらせていただきました。楽しく心豊かになれた一時でした。感謝!
その帰り道、杉之内さんと日本エルサレム教会の話になりました。スウェーデンボルグの著作の大半を翻訳された柳瀬芳意牧師の努力によって建てられた教会です。しかし柳瀬牧師亡き後、教会運営に関して内紛が起き、裁判にまでなって数年経つ教会ですが、裁判でひとつの結果が出ても、教会が教会となることは至難の業です。
この話を聴いて心が痛みました。礼拝を維持して主を賛美し祈る共同体づくりは外面的なことだけではなく、私たちの生活の基本となる霊の世界、こころの内が改革されなければなりません。そこには自他に対する和解とか赦しがどうしても必要です。
私はこの間、心を痛めていましたが、何も具体的には動きませんでした。動けるような状態ではなかったのです。私たちの兄弟関係にある教会です。見捨てるわけには行きません。しかし私たちに必要なことは今こそみこころに聴く姿勢を持つことです。その中で私たちのできること、すべきことをきちんと知り、それを行うことです。祈りつつより良い施策を持ちたいものです。
2011年5月8日(日)牧師 國枝欣一
連休明けの最初の聖日です。心も体もリフレッシュして日常に戻ってこられたのではないでしょうか。実家に戻り親御さんと久しぶりにゆったり過ごされた方、日ごろの忙しさから解放され旅行をされた方、趣味にいそしんだ方、ボランティアをした方さまざまな過ごし方があったと思います。またこの災害時にずっと勤務という方もおられたと思います。
私の義理の息子は経産省に勤めていますが、彼の災害直後のしていたことは全国へのお棺と骨壷の手配とその輸送でした。この間多くの人々に助けられたといっていました。本庁勤務ですので現場を知らないということを意識していて、勤務ではない休日を利用して若い部下を誘って被災地入りをしていました。岩手と宮城は行ったので後福島を訪ねることを計画しているようです。今回は「キャンナス」という看護婦を中心とするボランティア組織の仲介で東京からボランティアパイロットのヘリコプターで現地入り、薬剤師の娘も何か役に立つかもしれないとヘルメット、軍手、ゴーグルを持って同行しました。さまざまな課題を抱えて二人は戻ってきました。
役人はとかく批判されがちですが、若い役人の中にさまざまな壁にぶつかりながらも、現場のニーズを踏まえつつ施策を作ろうとする集団があることを知りうれしく思いました。同時に今回の災害が、多くの人々につながりを意識させ、人々のために生きることの大切さを改めて知らせてくれているようです。これも主が私たちに恵んでくださったものと、<いのち>の復活のときに感じさせられたゴールデンウィークでした。さあ、新たな<いのち>のスタートです。
2011年4月24日(日)牧師 國枝欣一
今日は復活祭、イースターです。2000年前、ユダヤ教の人々は救い主を待ち望んでいました。祭司、律法学者達はもちろん救い主、メシアを心待ちにしていました。教えを良く知っていた人々が、イエスキリストを神殿から排除し、殺してしまったのです。一般の人々はローマの支配から自由にするこの世の王を救い主と考えていました。主が意図していたことは、初めから天界の秩序を回復し、天の王国を支配することでした。すなわちこの物質世界の元になる霊的世界を整えることであり、しかしお弟子たちも当時はそれを理解していませんでした。
福音書の中では三度主の受難と復活が予告されています。文章として見ると実にはっきり書かれているので、理解しやすいと思いますが、それが現実の問題として「今、ここ」の問題としてどういうことなのかを考えると、そう簡単ではありません。私たちはどうしてもこの世的、自然的に理解してしまうからです。
しかしそれはイエス様の時代であろうと現代であろうと同じです。霊的な視覚、聴覚が開かれなければ理解することができません。現に私たちは新教会の教義を与えられ新しいエルサレム教会を標榜していますが、私たち自身が著作を固定的に理解したり、キリスト教会の伝統に縛られていると、主の存命中のユダヤ教の宗教指導者のようになってしまう危険性が十分にあります。
主は復活され,再臨しておられるという信仰は、頭で知的に受け入れ、それを大切なことと受け入れ、そのように生活することです。主が私という教会に住まわれ、いつも共に居る生活をすることです。謙遜に愛を持って生きることです。それはとても具体的なことです。
2011年4月17日(日)牧師 國枝欣一
先週、今週と三十代青年の刑事事件に関わらざるを得ませんでした。二人とも長い付き合いのある青年でご両親ともお会いしたことのある青年たちです。二人は個人的には善良で、心優しい青年ですが、社会参加しにくい傾向を持っています。知的障害、精神障害が疑われるのですが、両方とも軽いので公的支援が受けにくいという共通点があります。そのためにその障害を克服できず、家族は悩み、本人も長い間苦しんでいます。
犯罪を犯し刑に服している多くの人々は上述のような環境にある人々だといわれることが時々あります。刑事罰を受けて、矯正教育を受けてもその効果は疑われています。こうした中にあって成果を挙げているのは、アルコール依存症を克服するためのAAというグループです。彼らの教育プログラムは12ステップという名でよく知られていますが、その条文をみんなで唱えることからその集会ははじまります。
その第1条は、アルコールに対して自分は無力であるということを宣言することです。それは霊的な観点から見ると自分を明け渡すということです。明け渡すことから治療の過程が始まるのです。またこのグループの特徴的なことは自助グループだということです。依存症を克服した者が依存症の人を援助するというのが特徴的です。彼らの経験から患者さん達がおかれている困難をよく理解できるからです。
彼等に関わらせてもらいながら、彼等は私自身がもっと自分を明け渡し、愛することを学ぶようにと送られて来た人々と感じつつ、霊的生活と現実生活をどのように変えればよいのか、どのような人々と繋がればよいのか模索中です。繋がりの大切さを思わされています。
2011年4月10日(日)牧師 國枝欣一
東日本大震災、過去に経験したことがない大津波、それによる原子力発電所の事故と放射能漏れ、こうした衝撃的な体験をしている私たちですが、直接被災しなかった私たちの多くが被災者のために何かをしたいという願望を持っているのではないでしょうか。何かできることをしたいという願望は「愛」から出てくるものです。プロゴルファーが自分の1年間の賞金を全額義捐金として提供する、ケイタイ会社の社長が個人財産を100億差し出すとか、自らの役員報酬を役員をし続けている限り提供するなどということは、日本人に共通する「愛の傾向」が働いているということを示しています。一般市民の募金もかってないほど集っているという報道もありました。
このような命の危機的な状況があっても日本人は混乱状態にならないというのが世界の驚きになっていますが、私はこのような状態は日本人の霊的状態の高さを示しているのではないかと思います。尖閣諸島の領有権の問題、北朝鮮の日本人拉致の問題、北方領土返還の問題などの場面で日本外交の弱腰が叫ばれることがありますが、日本人の霊性という観点から見ると、実は私たちの冷静の高さが、そのように見えさせるという面もあるように思います。
この大災害が私たちの生活をさまざまな形で圧迫することは間違いないでしょう。しかし誰もが復興することを信じていると思います。それは個々人の生活再建への努力もありますが、私たちには主の流入が豊かに働いているのです。それがあってさまざまな職種の人々の誠実な働きが支えられていると感じています。
2011年4月3日(日)牧師 國枝欣一
私たちのスウェーデンボルグ神学の基本用語に「愛と知恵」「善と真理」「意志と理解」というのがあります。それらは神から発するものであり、それを受ける天使や霊の受け皿であり、最後は人間がそれらを受け止める場を示します。天国と地獄は神から発せられたものをどう受け取るかの違いの世界です。
頭で理解することはそれほど難しいことではないような気がします。スェーデンボルグはそれを実に明快に説明してくれているからです。ところがそれを自分の生活と重ねて考えると実際にはなかなか難しいです。善なることを教えられたり、真理を示されてもそれを素直に受け入れられない「私」が存在するからです。
この「私」は善なるものを示されても真理を目の当たりにしても、過去の自分の経験に親しんでいることもあって、それらをなかなか受け入れることはできません。それよりこっちの方が良いのだという自分の情愛が無意識に働くからです。これを意識化することが実に難しいのです。
それを癖と私たちは呼んでいますが、私もこれで長いこと苦しんでいます。自分が善意のつもりでやっていても相手に不快感を与えたり、気づかないでやっていることが相手を傷つけていたりするからです。その上多くの場合、不快感を感じた相手、傷ついた相手はそれを「私」に伝えてはくれません。ただ去っていくだけです。この繰り返しを神の視点で見ると地獄です。
教会は「主への愛」や「隣人への愛」で成り立っているものです。そして教えられていることを自分の生活に落としこめるようになるために、相互批判、意見の交換、感情の交換ができるよう相互にオープンでありたいものです。そこに主の流入、精霊が働くのです。
2011年3月27日(日)牧師 國枝欣一
11日の東日本大地震から1週間。福島の原発事故は多くの専門家が懸命に取り組んでいるにも拘らず、その解決の見通しが見えない状態です。こうした事態にスウェーデンボルグ神学はどう応えているでしょうか。
新教会に集う私たちは「主は決して私たちを罰することはない。」旧約新約の「神は愛である」ということです。しかし私たちは「なぜ私たちはこんな大きな災害にあわなければならないのか?」と言う疑問を持たざるを得ません。「なぜこんなにも多くの人々が死ななければならないのか?」こうした問いはスピリチュアルな痛みから出てくる問いです。ここに「愛はあるのか」と思わざるを得ません。しかしこうした問いを持つ私たちが今ここに生きていると言うことそれ自身が恵みです。この問いは私たちが何かを知り、そこから学び、それを大切なこととして何かをすることができます。
ジョージ ドール先生からお見舞いのメールをいただきました。その中に私たち自身がその事態に対してどのように応えるかが前述のような問いへの答えの一部であり、「神は愛である」を実践するときにそれは私たちのものとして強固なものになるということでした。
ですから私たちができることをする、被災地を思い、お金を出せる人はお金を出す、物を出せる人は物を出す、電気や油を節約できる人は節約する、買いだめに走らないといったことが神は私たち一人一人を愛してくださっていると言うことにつながるのです。あたかも自分自身でできることを一生懸命するときに、私たちは主とつながり、主からの流入を沢山受けるということになるのです。祈りつつ自分のなすべきことをやっていきましょう。それが復興への途に参与することにもつながります。
2011年3月20日(日)牧師 國枝欣一
11日の東日本大地震から1週間。福島の原発事故は多くの専門家が懸命に取り組んでいるにも拘らず、その解決の見通しが見えない状態です。こうした事態にスウェーデンボルグ神学はどう応えているでしょうか。
新教会に集う私たちは「主は決して私たちを罰することはない。」旧約新約の「神は愛である」ということです。しかし私たちは「なぜ私たちはこんな大きな災害にあわなければならないのか?」と言う疑問を持たざるを得ません。「なぜこんなにも多くの人々が死ななければならないのか?」こうした問いはスピリチュアルな痛みから出てくる問いです。ここに「愛はあるのか」と思わざるを得ません。しかしこうした問いを持つ私たちが今ここに生きていると言うことそれ自身が恵みです。この問いは私たちが何かを知り、そこから学び、それを大切なこととして何かをすることができます。
ジョージ ドール先生からお見舞いのメールをいただきました。その中に私たち自身がその事態に対してどのように応えるかが前述のような問いへの答えの一部であり、「神は愛である」を実践するときにそれは私たちのものとして強固なものになるということでした。
ですから私たちができることをする、被災地を思い、お金を出せる人はお金を出す、物を出せる人は物を出す、電気や油を節約できる人は節約する、買いだめに走らないといったことが神は私たち一人一人を愛してくださっていると言うことにつながるのです。あたかも自分自身でできることを一生懸命するときに、私たちは主とつながり、主からの流入を沢山受けるということになるのです。祈りつつ自分のなすべきことをやっていきましょう。それが復興への途に参与することにもつながります。
2011年3月13日(日)牧師 國枝欣一
3月11日の地震には驚かされた方々は多いのではないでしょうか。各地に被害が出ているようです。私は礼拝堂でスピリチュアルケア東京というカトリックの方々が中心のグループのスーパービジョンをやっていました。教会の屋根は軽く潰れることはないと思っていましたので心配をしていませんでしたが、50代60代のご婦人方でしたので、とりあえず机の下に避難していただきました。ところがすべての電車はストップしてしまい、帰ることができなくなったので、教会の牧師館を開放して泊まっていただきました。
次の朝のこともあり、食料の買出しに行き、ありったけの布団、毛布などを出して寝ていただきました。その間に余震が何十回も続き、教会員のご家族の安否を尋ねるべくお電話をしましたが電話はつながりませんでした。私の家族は以前から地震が起こったら九州佐賀県の親類宅に連絡をすることになっていたので佐賀県経由で家族と連絡を取り合うことができました。
教会の会員同士の安否確認の方法も考えておくべきだと感じました。教会も、火事さえ起こらなければ避難場所のひとつにはなれるなと感じました。
2011年3月6日(日)牧師 國枝欣一
先週の金曜日でホライズンの下半期の講座が終わりました。隔週1日4時間の10回の講座で、ほぼ半年間かかります。しかし全員が1日も休まず出席するほど熱心な人々です。その中にクリスチャンの方もいます。その方が言います。教会の中ではこんなに自由にしゃべれない。大正大学に事務局を置いている国際宗教研究所の理事はキリスト教会は内向きではないか。なかなか協力を得られないと言っていました。今教会では内部でエネルギーを使い果たし外に向かう力が衰えているのでしょうか。
キリスト教がユダヤ教から分離した頃、キリスト教は外に向かって(異邦人伝道)行きました。これが力になりました。教会の外には救いを求めている人々がたくさんいます。にもかかわらず私たちはこうした人々を教会に招くことができません。なぜなのでしょうか。私たちの信仰が、聖書の時代のユダヤ教のように形骸化していないでしょうか。
神によって生かされているという実感をお互いに持っているでしょうか。教会の中で自由にものがしゃべれているでしょうか。どのようにしたら心を開けるでしょうか。私はホライズンの学びの中でできることを教会の中でもやってみたいと思います。
2011年2月27日(日)牧師 國枝欣一
先週の金曜日は里親の会に招かれて話をしました。新教会のメンバーの中にも里親になって小さな子供を育てている方がいますが、日本ではヨーロッパ、アメリカと違い里親制度がなかなか浸透していきません。神学校にいた時チェコ人の夫婦の子供3人はみな里子でした。彼らは貧しく一パックの紅茶を鍋で煮出してみんなで飲む、ビンカンの収集日には夜近所を回りデポジットの缶を集め、スーパーにもって行き換金するなどしていました。日本では子供を育て上げてから里親になるというケースが多いのですが、欧米では若いカップルが里親になり、自分の子と一緒に育てるというケースがたくさんあります。会場には子育てを終えた熟年夫婦の間に里親希望の若い人が何人かいました。若いといえば大学生が二人いました。彼らは卒論に里親制度を選んだようです。またかっての職場のスタッフが児童相談所のケースワーカーとして働いており、会場にいました。不思議な縁を感じました。そしてこの人々は新しい魂を持った新教会に連なる人々という感じがしました。この縁はこれからもつながっていくような感じがします。10年ほど前に種まきをしたものが育ってきているのです。里親に魂のケアのできる人が必要と感じました。
2011年2月20日(日)牧師 國枝欣一
日本の教会は、明治期に主に士族の人々に伝えられました。武士階級の人々は江戸末期には知的な階級に属する人々でもありました。ですから新しい社会の幕開けと共にこの人々が建国のために大いに働きました。その人々とクリスチャンとが重なりました。クリスチャン人口は大きな集団にならなくても、教育、社会福祉などの分野で大きな影響力をもち、それは今日までつづいているものが少なくありません。
しかし教会を構成するメンバーは朝鮮戦争以降今日まで一貫して減少傾向が続いています。新教会はこうした時代にあって「聖なる都、新しいエルサレムが・・・天から下ってくるのを見た。」はずですが、東京新教会の実態は旧教会の傾向となんら変わりないように感じます。
今、世の中は霊性(スピリチュアリティー)の重要性が叫ばれ、さまざまな動きが出ていますが、新教会を始め他の教会もそれを取り込めていません。何かがかけているのだと思いますが、その何かがつかめません。ホライズンや“Be!”の活動は新教会の大きなうねりの一部です。使命感を持って続けることの中に何かが始まるのかもしれません。安息日が真に神との関係を思い起こす時となるよう模索を続けていきたく思います。
2011年2月6日(日)牧師 國枝欣一
先週、3歳児を持つ母親から面白い話を聞きました。就寝時子供と布団に入ると子供が突然「○○ちゃん、大黒さんに言われて、踏切わたってママとバーバとチチのところに来たの」と言ったそうです。母親は驚いて「大黒さんて誰?」と聞くと「お爺さんだよ、神様みたいな人!」と言ったそうです。このような話はあるということを聞いてはいましたが知り合いの中にそうした子供が出てきたことに興味を感じました。ものの本によると、5歳くらいまでの子供にはこうしたことを言うことが間々あるそうですが、この話を聞いて生まれる前、それも肉体をもつ前の様子を語れる子供がいることで、子供にとっては大人以上に霊の世界が身近に感じられるのだと感じさせられました。大黒さんと言ったのは彼の生活の中に大黒様が身近な存在なのでしょうか、それは聞きませんでしたが、踏切を渡ってというのは、この子は電車が好きで踏切から離れないと母親から聞いたことがあるので、この子の生活体験から出てきた言葉なのだと思います。でも神様みたいな人と3歳の子供が言うところに興味が惹かれます。私たち大人が神の真理に目覚めるためには、大人でありながら、この子のような純真さを取り戻すことの必要性を感じさせられます。多分それを老人の無垢というのでしょう。欲にまみれている自分を脱却して、早くその領域に近づきたいものです。
2011年1月30日(日)牧師 國枝欣一
私は看護専門学校や大学の看護学部で人間関係論を教えていますが、ある時2年生の学生に「何で看護に人間関係論なんて必要なの?」と訊かれてびっくりした事があります。彼女の中では医療器具を使って患者に何かをする事が看護であってそこには人間関係などということなどは入り込んで来ないということのようでした。入学前の高校生が言うならば「そんなこともあるかな」と想像しますが、入学し1年半学んでいる学生の言葉として大変驚かされたわけです。学ぶことの中に科学的論理的に見ることは教わっても愛すること尊敬することは入っていないわけです。医学部も同じで科学者として対象である患者を精密に診ることは訓練されても、そこに居る人間を掛け替えの無い者として見る目は養われていないのです。名医といわれている医師の手術の場面のドキュメンタリーを見た事がありますが、そこでの患者の扱われ方がまるで物体のように扱われていると感じたのは私だけでしょうか。「善なることは全て神から、悪しきことは全て人間から」というスウェーデンボルグの言葉がありますが、人間の生命を救う業は天使のレベルに達していても、その業や知識をいただいていることに感謝の念を持たないとそれらは容易に悪魔化してしまうと感じました。
2011年1月23日(日)牧師 國枝欣一
科学の発展、医療の進歩には目を見張るものがあります。素人の私たちには科学や医療が私たちの生活の困難を殆ど解決してくれるのではないかと思うほどです。科学や医学の世界では完璧な客観性を求められます。こうなると医学は特に単に身体組織をいじったり、そこに化学変化を引き起こしたりする作業になってしまいます。その結果患者を癒す力が衰えてきてしまっていると警告を発する医師達がいます。そこに愛と思い遣りという触媒が欠けているというのです。聖書は「神は愛なり」と教えています。また「神は一なるもの」です。科学も医療の発展も私たちが神に由来する愛を持って利用する時、それはみんなが一つとなるために有効なものとなるのではないでしょうか。そこに地上に於ける天界の創造が可能になるように思います。
2011年1月16日(日)牧師 國枝欣一
重度の障害を持つ人に対しては昔と比べれば多くの援助が得られる時代となってきているように思います。その点では確かに住みやすい社会になってきているでしょう。しかし高校全入時代になってから、従来境界線にある人々や軽度の障害を持つ人々を受け入れられた職域が無くなってしまい、こうした人々が縦割り行政の中で落ちこぼれてしまうという現象が大きくなってきているように感じます。先週は一人の青年(軽度の精神障害、知的障害が疑われる)に関して北海道や都の精神保健センター、福祉事務所、警察などに電話しなければなりませんでした。北海道のホテルや食堂などにも電話しなければならなかったのですが、みんな感じの良い方々で、それなりにこの青年に関して共に考えてくれる人々でした。
家庭は崩壊してしまい、一人暮らしです。生活保護と障害者年金で生活している青年ですが、日常生活の支援を必要としています。お金を与えられてもその管理ができないからです。その結果警察のお世話にもならざるを得ませんが、障害があると言うことで罪は問われません。地域の教会として、教会はこうした人々のために、機関と機関をつなぐ役目にもなれるかなと思いました。わたしたちの役立ちは時代と共に変化もすると感じました。
2011年1月9日(日)牧師 國枝欣一
あけましておめでとうございます。
新しい年を迎え改めて新教会の有り様を考えました。わたしたちは新教会員であるといいながら旧い教会の枠からなかなか出られないでいるのを感じます。それほど旧いキリスト教会の価値観に縛られていると言うことでしょう。朝日新聞の連載に「孤族」という欄がありますが、いかにわたしたちの世界が孤立化してしまっているかが分かります。関係の切れてしまった人々がいっぱいいます。それは老人ばかりではなく青年も働き盛りの壮年の人々にも沢山います。
「助けて!」と他人に言えない、言える関係にないということが問題です。本音で語り合える関係が無いのです。多くの人が悩みなんか無いと言うように振舞っていますが、そうしていればいるほど孤立化し苦しくなっていきます。
新教会員であるわたしたちはもっともっと喜びや苦しみや辛さを、互いに自由に出せる関係を作って行きましょう。そのためには勇気が要ります。でもそのちょっとの勇気を持つことによって、私たちは楽になれ、「助け手」を発見できます。そして「助け手」の中に救い主を見ることができるでしょう。お互いにもう一歩出る努力をする年としたいものです。
2010年12月24日(日)牧師 國枝欣一
19日はクリスマス礼拝と愛餐会でした。23名の参加者と小振りな集まりでしたが、わたしには教会の再生の基礎付けとなる特別の集まりのように思えました。様々な形態をとった宣教の働きが形をとってきたように感ずるのです。
会員のケアから派生する新しい会員の獲得。これは教会として当然なことです。しかしそれ以外に地域で教会の存在が知られるようになって教会に来られる様になった方々、ホライズンの活動を通して関わった方々等。そうした方々も教会員と混ざって会を盛り上げてくださっり、共に働いてくださいました。
サンタクロース役は誰がするのか頭を痛める年もありましたが、今年はギターを担いで出てきてくれました。例年愛餐会はポットラック(一品持ち寄り)形式で行いますが、メンバーの変化とともに食事内容も変わります。それぞれの人のそれぞれの家庭の味があってとても豊かな食事となりました。
大人も子どもも、新しい者も長い期間教会に関わっている者も、心を開いて一緒するそこにイザヤ書11章の狼と子羊、熊と牛、子供とマムシが共に住める世界イメージと重なり、大いなる力の働きを感じエネルギーの湧いてくるのを感じさせられました。メリークリスマス!
2010年12月19日(日)牧師 國枝欣一
新渡戸稲造の「武士道」を読みました。年配の方はお読みになったことがあると思いますが、深い感銘を受けました。まず彼の異文化理解の深さです。自国の事象を外国の人々に分かるように伝えるためにはその事象に関して深い理解を持つとともに、相手国の文化や歴史についても知らなければならないということです。相手国の文化や歴史を土台としたり、対比する形で自国の事象を説明しています。すると相手が理解しやすくなるのです。
新渡戸は「武士道」を聖書の旧約と捉えています。キリスト教がユダヤ教の旧い神との約束上に新約聖書が神イエスのみ言葉として書かれているように、日本の場合は「武士道」の上にキリストの福音そのものが接木されればよいと言っています。しかしその「武士道」も廃藩置県になり廃れていきます。
私が育った頃にはまだその匂いが残っており、その感化を受けた私の子育ての中にもそうしたものの考え方の片鱗がありました。最近子供を持った息子の子育てに、そうした日本の価値でありながら普遍的なものが流れていくのか心配になりました。そこで新教会を接木する台木として、私の息子へのクリスマスプレゼントは「武士道」にすることにしました。
2010年12月12日(日)牧師 國枝欣一
先週、後記に書いた文章に感想とも意見とも取れるメールをいただきました。どうであれ、読まれているという反応があるのは嬉しいことです。ご自分の体験をもとに書いてくださっているのですが、深く自分に気づいてそれを伝えることの困難さが綴られていました。
確かにコミュニケーションは難しく自分が思ったように行かないことがしばしばです。特に「自分を信頼し、相手も尊重する」と言う態度は、相手に焦点が置かれているのではなくまず自分に置かれているので、起こってくる結果については自分で責任を取るということになります。しかし自分で責任を取るので相手を非難したり批判したりしないですみます。
実は相手を非難したり批判をする私の意識が私を苦しめるのです。と言うことは相手が私を苦しめるのではないと言うことです。私の立ち方が私を幸せにしたり苦しめたりしているのです。ここが分かったとき私はすごく自分がほっとしたことを覚えています。主が私の中に入ってきてくださったと言う感じでした。私の意識とは私の霊のことですが、天使とつながったと言う感じでした。上手くいかなかったり失敗しても自分がやり直せばいいのです。また挑戦します。
2010年12月5日(日)牧師 國枝欣一
大分前の話ですが、私はある団体からある日を境に完全に手を引いたことがあります。理由は二つありましたが、そのひとつは信頼していた人が本心を私に関わることでありながら言えないでいることに気づいたからでした。それを彼が言う時には変化球が飛んでくるので、受け手としては何を言いたいのか推し量ることに困難を感じていました。そしてストレートトーク(自分も相手も尊重する話し方)のできない相手に幻滅したのです。
でもよく自分を見直してみると、自分にも似た状況がありました。私の場合は15年も言えないでいたのです。核心を明確にしつつ、相手を否定しないで表現するにはどうしたらよいのか自信を持って話すことができなかったのです。
先週やっとそれができました。先代の牧師野田雄三先生から25年も前に教えていただいたことがやっと自分のものになった瞬間でした。他人のことだと簡単に指摘できることですが、いざ自分のこととなるとなかなかできないことを改めて感じさせられました。
自分の力でできたことではなく聖霊の働きと野田先生の霊が応援してくださってできたことだと感じました。感謝!!
2010年11月28日(日)牧師 國枝欣一
スウェーデンボルグの著作の中で特に難解なのは「宇宙間の諸地球」(静思社)、「宇宙の諸天体」(アルカナ出版)ではないでしょうか。しかしスウェーデンボルグはこの著作は中心的な著作と考えており、「天界の秘儀」の一部として出版しただけでなく、後から別冊としても出版しています。
この本のむずかしさは私たちが自分と言う存在を肉体と分離して理解できないと言うことと、20世紀にアポロ飛行士が月面に降り立ちそこに生物を認められなかったときに、他の惑星にも人間と似た生き物が存在できないと言う私たちの常識が理解を邪魔していると考えられないでしょうか。
肉体は私たちの霊を動かすシステムです。システム自身は自分で勝手に動くことはできません。肉体と言うシステムを動かす存在をスウェーデンボルグは霊と言い、それこそが人間だと言いますが。霊を意識と言い換えたらもっと理解しやすくなるでしょうか。意識体それ自身は霊的なエネルギーです。これこそをスウェーデンボルグは人間と言っているのです。ですからこの霊的なエネルギーである意識体は様々な形として存在できるわけです。
結果として私たちは全宇宙ともつながりを持つ存在と言えます。そんな観点からこの著作を見直すとそこにある重要性に気づけると思います。
2010年11月21日(日)牧師 國枝欣一
私がこの3年ずっと探していたアメリカの論文をやっと先週発見することができました。それは祈りに関する1989年の論文です。ラドルフ・ビルドという心臓学の医者がサンフランシスコの心臓治療ユニットに入院した患者393人をランダムに二つのグループに分けA群の患者には一人につき5から7人の人が毎日祈り、B群の患者にはそうした人々を設けませんでした。祈る人々はインターネットでアメリカ全土の教会から募集し、この人々は患者を知りませんでした。またこの患者たちに関わる医師や看護師にもそれぞれの患者がどちらに属しているか知らせませんでした。医療がこの実験に影響を与える事を避けるためでした。その結果驚くべきことが分かりました。A群の患者の病気の進行が明らかに遅かったのです。
この実験と結果について他の研究者もこの実験結果は精査に耐えるものだと言っています。またこの実験でA群を病院の近くの人々と遠隔地に住んでいる人々に祈ってもらうグループに分けましたが、距離には何の影響もなかったということでした。
私たちの信仰には祈ることが欠かせません。真剣に祈ることは大切なことだと科学が証明しているのです。大いに祈りましょう。
2010年11月14日(日)牧師 國枝欣一
霊というとなかなか理解しにくい存在です。人の体はシステムです。そのシステムを動かすものが霊です。それを意識と言い換えても良いと思います。意識が体を動かす原動力です。意識はその人の愛です。愛の傾向です。この愛を神の愛に近づける修行の場がこの地上での生活です。その修行の仕方は人それぞれ独自です。親子関係がうまくいかない、仕事がうまくいかない、結婚生活が困難、これらはみな地上で生活する中で起こってくることですが、それらはみな主によって与えられている試練です。霊がより高まるための訓練です。
死とはその訓練課程を全部終えてふるさとに帰ることです。従って霊と言う人間は永遠に生きることになります。となると私たちは旅立って言った先達の人々にもう一度会えることになります。希望が持てます。その希望を目標に今と言う日を十全に生きることができ、結果として自分の役立ちを果たすことができます。
最近もそうした方に出会いました。家族を守り、仕事を大切にした方の旅立ちでした。残されたものたちは遺言どおりに式後食事の会がもたれました。夜10時過ぎまで家族と彼の友人たちで親しいときを持ちました。その中で本当に彼は役立ちを果たしたのだと実感しました。
2010年11月7日(日)牧師 國枝欣一
私の力になってくれる人で大阪出身の方が居ます。最近では関東でも良く知られるようになってきたお祭りにだんじり祭りというのがあります。彼女の兄弟のように育って来た30才の甥が癌で亡くなりました。彼の住んでいる地域にはその青年団がないのですが、隣の町内の青年団に入れてもらって活動をしていました。昨年は癌と分かっていても大切な部署であったためだんじりを担いだそうです。彼女の姉である母親はいつ倒れるのではないかと気が気ではなかったそうです。
今年のお祭りの前に若い奥さんと小さな二人の子供を残して彼は旅立っていきました。祭りの当日、例年だとだんじりの通る道筋でないのに、彼の仲間たちは警察の許可をとり、交通規制をしながら、彼の家の前まで来て、「○○!来たで!」「○○!来たで!」と口々に彼に呼びかけたそうです。小さな長男は父の遺影を持って迎えたそうです。
現代には珍しい若者の強い絆の話を聴かされ感激もしましたが、この一件で、小さな頃から抱いていた姉妹のわだかまりが、姉妹の間で溶けたという話を聴いて、この若い甥が彼の役立ちを、とことん果たして旅立っていったのだと感じました。
2010年10月31日(日)牧師 國枝欣一
先週は嬉しいことがありました。人は誰でも人生の中でいくつか大きな決断をしなければならない時がありますが、そこに立ち合わせていただけた事です。受話器をとるとただならない気配のする声と言葉遣いが伝わってきました。咄嗟に事故か事件が起こったのかと思いましたが、彼女がした決断がその方にとって適切であるのかないのか不安になったようでした。
こちらの心を落着け、お話に集中して聴かせて頂き、その決断があるしっかりとした見通しの中で行われたことが分かりました。ご本人もそれを確認できたようです。夫婦であれば自分の配偶者に相談するでしょう。子供であれば親に相談するのが普通かもしれません。しかし先週の説教との絡みで、ご自分の決断をちょっと立ち止まり、見直されたことは、その方の信仰の有り様が如何に誠実なものであるかとも思わせられました。お話を聴かせて頂く中で,落着かれ、ご自分の決断に自信を取り戻されたようでした。
教会は良く家族に例えられますが、苦しい時、辛い時、不安な時、そして嬉しい時に、会員の方々とご一緒できる時、共に主にあることを強く感じられます。今回こうしたことを感じさせられ、うれしい時を持つことができました。感謝!
2010年10月24日(日)牧師 國枝欣一
「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という言葉は旧約聖書コヘレトの言葉(箴言)3章にある言葉です。つくづくそうだと思います。先週、癌を患い手術、薬物療法を繰り返しておられる方とお話しました。彼女は幼少期虐待を受けて育った方ですが、とても自立的な方で自分をしっかりと持った方です。
しかしお会いすると過っての虐待の影が色濃く残っていることが分かるような方でした。ところが彼女がご自分の家族の歴史を見直すチャンスを与えられ、ご自分の今を振り返ってみました。そこで彼女が気がついたのは、ご自分の今の家族に対する役割でした。実利的な方でしたから霊的なことなどあまり考えない方でしたが、家族の歴史を見返すことで、霊的な物事へ目が開かれることになりました。
結果として、様々なストレスが軽減され、気が楽になり、ご 病気自身も軽くなっているように感ずるとおっしゃっていました。「求める時、失う時、保つ時、放つ時、・・・・・・愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」。何事にも時があることを改めて教えられたような感じがしました。
2010年10月17日(日)牧師 國枝欣一
生きているのではなく、生かされている自分に気づくことで世の中が違って見えてきます。生きていると感じている自分は自分によって生きていると感じます。調子の良い時はそれでもいいのかもしれませんが、そんな時は、すべては自分の力によって成るという過信と傲慢さの落とし穴が襲ってきます。「生かされている」と感じられる時は、私を生かしてくださっている「何者か」が存在する訳です。そこからは感謝が生まれ、自分の中に謙虚さが生まれてきます。
どんなに良い時であってもそれは主がしてくださったことであり、その功績を主に帰することができ、傲慢という落とし穴に落ち込む自分を守ることができます。また反対に状況が悪くなったとしても、なおそこに生かされているという実感を持てると、その状態にあることの意味を見出すことができ、生きる力が湧いてきます。「生かされている」ということは、生きていて良いのだということであり、そこに役立ちがあるということです。
そこに気づかされることによって私たちの人生は輝きだし、生きるエネルギーをいただき、感謝して、満ち足りた人生を送ることができるのだと思います。
2010年10月10日(日)牧師 國枝欣一
先週は教会のメンバー同士の様々なやり取りを目撃したり、私自身もその渦中にあって面白い体験をしました。年長者の会員に若い会員が素直に自分の思いをぶつけていました。孫とお爺ちゃんのやり取りという感じもしましたが、それぞれがその意見の交換を通して学ぶところがあったように感じました。私は私で教会のお年寄りから説教に関してお尻をたたかれるような批判と励ましを受けました。
みんな教会を我が事として思う気持ちから出ている表現です。時に無理解や誤解からこうしたことが発するということもあるでしょう。それを恐れずに関わって行こうとする時に新たな前進が起こると思います。その時世代を超えて伝えられてゆくものが伝えられ伝統となっていくのだと思います。
自由に自分の思いを表現できる場は天国的な場です。行き違っても修復できる場です。ともに教会を考え、信仰にたって、自らの中にある教会を育て、見える教会としての東京新教会を安全・平和な場とできる時に、私たちは主の働きをより一層はっきり自覚できると思います。
2010年10月3日(日)牧師 國枝欣一
私たちが苦しんだり悩んだりしている時、個人的にはそれからいつも解放されたいと願っているのですが、実はその苦しんだり悩んでいることがその人の情愛(愛の傾向)を示しているということになかなか気づけません。その原因は私たちは自分という存在をこの肉体を持っている私を「私」と勘違いしてしまうことから始まっています。
この肉体を脳を通して動かしているものが「私」なのだということに気づく必要があることをスウェーデンボルグは繰り返し述べています。それを霊といいます。ですから「私」という存在は霊であって肉体ではありません。その霊をしっかりと把握するためには自分の意識というものに精通することです。そこには地獄的な私も居ますしまた天国的な私も居ます。
苦しんだり悩んだりしている私は地獄の中に居る私です。それを認めて、まったく自分がするようにそこから動いて離れる時に主の流入が働きます。主はいつも私たちを招いてくださっています。それが私の意識と主の意識が結びつくときであり、それを確認する場が礼拝です。
2010年9月26日(日)牧師 國枝欣一
私たちを苦しめるものは何かと考えてみました。
経済的問題、健康への不安、職場や家族との人間関係、将来への希望への不安といろいろありますが、考えてみるとそれらはみな自分の愛の傾向(情愛)の形にあるように思います。情愛とは、他の言い方を選んでみると、それは今私という存在が最もエネルギーと時間をかけているもの(こと)であるように思います。
苦しんでいる、悩んでいるということは、その人がそれを大切だと思い、時間とエネルギーをかけるものです。ということは、事態とか事実がその人を苦しめているのではなく、その人の意識がその人を苦しめていることになります。その人の意識とはその人の霊ということです。その霊がどこに居てどのような霊と付き合っているかということです。
とすると私たちにとって重要なことは、苦しめている自分の意識を手放し、よい事を見、楽しい事に自分を入れることによって、天界的な意識を招き入れることになります。
するとそこに主が働いてくださるということが分かって腑に落ちたように感じました。
2010年9月19日(日)牧師 國枝欣一
12日の礼拝は和田嘉浩さんと明咲子さんが奏楽を担ってくださいました。当日は礼拝出席常連の方たちはもちろん久しぶりに来てくださった方、初めて来てくださった方などが礼拝を共にしてくださり、いつもと違った形で主の臨在を感じられる礼拝でした。みんなが繫がり、心を開いて交わりが出来ているように感じました。
その形は礼拝後のお茶の時間とその後の各自の昼食にも現れていたように感じます。老若男女、年齢、性別、信仰歴を越えて、主にあって共に尊重しあい興味を持ち合い相手の話に耳を傾ける姿勢に現れていたように思います。
主は和田夫妻を教会音楽へ、栄さん、鈴木さん、瀧村さんを礼拝へと招いてくださっています。迎える私たちが主の思いと願いを十分に知って、そこに従うことが出来るようになりたいと思います。
主がどこにでも居られ、同時に一人一人の中にも存在することを改めて感じさせられます。この感覚を皆さんと共有しながら天国の建設のために共に働きましょう。
2010年9月12日(日)牧師 國枝欣一
環境破壊や生活の変化の中でいろいろな種類の生物が絶滅している現状がニュースで伝えられることがたびたびあります。どこがどう違っているのか詳しくは知りませんが、藤沢市内で生息していた「藤沢メダカ」絶滅したと見られていましたが、個人の池で自然繁殖していたのが発見され、小学校や多くのボランティアのおかげで復活しつつあるとの新聞報道に接しました。都内でも似たようなことが報道されました。
生物の多様化ということが言われてもう10年以上がたちますが、世界各地で環境を整える試みがなされています。それらの事業は20年30年かからないと目に見えてこない事業ですが、地道な努力が重ねられているようです。佐渡のトキに関する報道も時々目にしますが、トキが自然繁殖するために多くの人々が環境を整えるべく働いています。それはお役所の仕事だけではなく私たち一般住民の意識改革と協力が欠かせません。
創世記には天地創造の物語が描かれています。「神はすべてを善しとされた」ものを、私たちが便利さ快適さを追求することで環境破壊に加担していることに気づかされます。ここに私達が罪から自由になれない現実を感じます。
2010年9月5日(日)牧師 國枝欣一
私たちは皆心に傷を負いながら大人になってきました。親や養育者、あるいは学校の先生、友人から傷を受けて来ました。彼らは私たちが被造物として完全でないのと同じように不完全ですから、私達が傷つけられても仕方がありません。そして過去を変えることは出来ません。
しかしよく考えてみると、過去の事実が私を傷つけているのではなく、私の記憶が私を苦しめていることに気づきます。私の記憶というものは過去の事実とは違います。記憶は私が覚えて置けるように脳が編集し記録されたものです。その記憶という私の意識によって私たちは傷つき、苦しめられているのです。従って親だとか教師だとかかっての友達が私を苦しめているわけではないのです。
編集し記録されたものは、映画やDVDと同じように再編集することが可能です。また自分の過去の記憶と言う意識をよく点検することによって新たな発見が可能となり、そこに新しい解釈が成り立つことがしばしばあります。この新しい解釈が与えられることによって、私たちは癒され、過去の記憶と和解が可能となります。
このあらたなる解釈や発見は突然やってきます。真理が啓示されるのです。神がそこに働くのです。癒しも、和解も主なる神の働きです。自分の解釈と言う立ち位置を手放すことで神が働きやすくなるのです。
2010年8月29日(日)牧師 國枝欣一
二ヶ月ほど前に「フォースかパワーか」(デビッド・ホーキンス著)と言う本を図書館で借り、これは持って置いた方が良い本と言うことで一月ほど前に買いました。著者は精神科医、セラピスト、講演家といわれていますが、私にとってはスウェーデンボルグがもし今日生きていたらこんなことを書いただろうと思えるような内容です。「わたし」と言う著作も同様です。
彼は、キリスト教徒である私たちが「神」という存在を現代の用語で述べています。彼はそれを「自我」と呼び、私たちが持っている自我と区別しています。そして私たちは誰かや何かによって悩まされるのではなく、自分の意識が自分を苦しめていると説きます。ですから私たちを苦しめている悩みや苦しみは自分の内部にあり、外部にはないというわけです。私自身自分を振り返って見るとまさにその通りだと感じました。
「パワー」とはスウェーデンボルグ用語で言えば隣人愛や主への愛といってよいと思います。また「フォース」は自己愛や世間愛から出てくる力です。これをさまざまな社会事象に当てはめて解説しているのですが、とても納得がいくように書かれています。新教会の形はこんな形になって社会のさまざまなところに起こってくるのだろうなと思います。
新教会を標榜している私たちはここから学ぶことがたくさんあるように思います。AAと言われる断酒会の活動とその根幹を成す12ステップが繰り返し取り上げられていますが、この1条1条が新教会をイメージさせるものを含んでいます。私たちの新教会を振り返る良いテキストだと思いました。
2010年8月22日(日)牧師 國枝欣一
100歳以上のお年よりが全国で280人ほど所在がつかめないと言う発表が新聞に載っていました。こうした人々の子供たちは戦争末期に生まれた人々でしょう。現在80歳から60歳代が彼らの子供たちだと推測できます。世界一の長寿国であり、世界第2位の経済大国といわれてきたわが国の影の部分がここに現わされているように感じます。
戦前、戦中は修身という道徳教育が徹底していたと言うのが教育の歴史ですが、100歳以上のお年寄りの方々は道徳教育の中で育った人々です。そして敗戦時この人々は30代40代の働き盛りの人々でした。と言うことは道徳教育を生きた人々といってよいと思います。
どんな家族にも問題はあります。ですからその家庭での問題がこのような形で社会問題化したとも言えるでしょう。兄弟や親子であっても何十年もかかわりを持たないまま来てしまったと言う事もあると思いますが、私はここに日本が敗戦を終戦と言い、戦後処理をきちんと責任的にしてこなかった日本の政治のあり方が、こうした事態を生んでいるように思います。
余りにも論理が飛躍していると感じられる人も居るかもしれませんが、政治は大人が運営するもので、その施策は大人の考え方一般が反映されたり、あるいは世論を作っていくものです。世界でユニークな日本文化は世界でかなり受け入れられてきているものの、無批判にグローバリズムを受け入れてきた戦後経済の発展の闇の部分では人心が荒廃して来ていることを知らせてくれる新聞報道であったように感じます。今さらに深く「神の愛と知恵」を受け入れ、自分の信仰をより強化することが必要とあらためて感じます。
2010年8月15日(日)牧師 國枝欣一
今日は太平洋戦争敗戦記念日です。12日に植松さんと二人で教会の古い写真の整理に取り掛かりました。戦前の西大久保の教会は空襲で焼け、戦前の写真は1枚もありませんでしたが、戦後狛江の会員の方から自宅を開放していただき教会学校と礼拝を守ったこと、その後、経堂3丁目の土居家の自宅で礼拝が持たれたことを知りました。沖山さんの婚約式の写真は経堂3丁目での写真でしたが、その時のテーブルはリンゴ箱の上に和服の洗い張りをする板に白い布をかぶせたものでした。
また私の存じ上げない熱心な会員の方がご近所の人々を連れてこられ、そのお一人に野田先生が絵をたくさん描いていただいた松浦さんがいたのだと言うことを知りました。松浦さんご夫婦の写真もあり、かって遠藤淑子さんに連れられて奥様を訪問したことを思い出しました。会堂が出来立てでまだステンドグラスの入っていない写真もありました。青年会や花の日の教会学校の写真もありました。
高田悠さんの青年時代、照子さん、淑子さん、睦子さんの3姉妹をはじめ多くの先達の方々の働きがあって今日の東京新教会があることを改めて強く思わされました。ご自宅にある古い写真を教会に寄付いただけると幸いです。昔のことがだんだん分からなくなってきています。早いうちに記録にとどめておきたいと思います。敗戦は日本の新たなるスタートでしたが、同時にそれは東京新教会の新たなる出発の時でもあったと強く感じさせられます。
2010年7月18日(日)牧師 國枝欣一
「歴史上1番長かった梅雨は何時だったか」というトンチのような質問があります。その答は今である「今年の梅雨」です。なぜかと言うと何でもその最中は一体これが何時終わるのか分からず永遠に続きそうな気もするからです。しかし歴史上梅雨の明けなかった夏はありません。例年より1週間長い、10日長いと言うことはあっても、梅雨にはいつも終わりがあります。
信仰生活を送る過程で私たちはしばしば試練に出会います。家族の病気や介護、経済上の問題、仕事の中での困難、人間関係、老後の不安など、その試練の数は限りなくあります。スウェーデンボルグは試練の後に平安が訪れるとその著作の中で繰り返し述べています。人は試練の中にあるとき悶々とし、苦しみます。この苦しさは何時終わるのだろうかと不安になります。
しかし「梅雨」のように「試練」もまた必ず終わりがあります。これが解かっていると試練そのものから来る辛さや、苦しさ、不安の強度は変わらなくても、試練の最中にある私はそれを耐え安くなるということがあります。その上更に、この試練が霊的成長のために不可欠であると私たちは教えられています。「主よ、お助けください。」と祈るとき私たちは孤独にはなりません。なぜならばそこに主が居てくださることを感じられるからです。主の臨在を実感できるとき、私たちの中には新教会、信仰が成長します。ありがたいことです。
2010年7月11日(日)牧師 國枝欣一
私たちには「意識」があるから自分と言う存在を理解できます。しかしその「意識」とは何でしょうか。「意識」については余りにも当たり前なので人はそれを問うことをしてきませんでした。意識があるないは心臓が動いている、自発呼吸がある、瞳孔の反応があるという生体反応の上に応答ができると言うことが医学上の判定基準です。しかしこうしたことが自分という存在は肉体であると言う錯覚を生み出します。そこから肉体の死への恐怖が生まれてきますし、その「意識」が危機に瀕することで病気が起こってきます。「意識」はいわば私と言う存在を動かすモーターのようなものと言ってよいでしょう。しかし現代の医学ではその所在は突き止められていません。
この「意識」は霊と言っても良いと思います。この「意識」が病んでいると、それは性格のゆがみと言う形で行為に現れたり、病気と言う形で肉体に現れます。またこの「意識」は自分とはこういうものという自我を育てます。となると自分の中にある怒りとか恨みとか嫉妬とか言う感情は自分の意識したものに対する感情となります。そうなると周りは関係ありません。もっぱら自分の意識の問題です。こう考えてゆくと「すべて良き事は神から、悪しきことは人間から」というスウェーデンボルグの言葉が生き生きと現実味を持って迫ってきます。
2010年7月4日(日)牧師 國枝欣一
ねっとりと肌にまつわりつくような空気、汗がじっとりと浮き出して来るような蒸し暑さ。梅雨そのものです。そんな日々が続いています。確かに不快ではありますが、しかし懐かしさも感じています。60年ほど前には「雷が来ると梅雨が明ける」と言われていました。
今ではお構いなしに雷はなりますし、局地的豪雨と言う大雨が降ります。その上竜巻の発生が伝えられることもあります。20年前ボストンに行ったとき、竜巻に対する避難訓練があって、「へぇ~、これがアメリカだ。」なんて思いましたが、日本にも必要になってきているのかなと思います。困った世界標準です。グローバル化です。
60年前、家庭には冷蔵庫も洗濯機もありませんでした。トマトやスイカなどは井戸で冷やして食べました。母は井戸端で木製のたらいと洗濯板でしゃがんで洗濯し、8竿、9竿 と洗濯物を干していました。高い柱2本の間に、竹製の竿を渡して洗濯物を干す風景も見られなくなって久しいです。井戸端会議もなくなりました。その周りで遊ぶ子供たちの歓声もなくなりました。
梅雨の合間の強い太陽の日差し、肌にまとわり付くような空気に、懐かしさを感じさせられるのは私だけでしょうか。エアコンの効く部屋に居て、脱水機の中から出す洗濯物を見て、もうすぐ来る夏を思いながら、60年前を思い出せる自分の存在に驚いても居る今日この頃です。
2010年6月27日(日)牧師 國枝欣一
最近「『わたし』真実と主観性」と題する本を頂きました。デービッド・ホーキンスという著者は欧米ではよく知られた精神科医として意識と科学との関係を明らかにしつつ、霊的世界の真理に対する誤解を解くべくさまざまな活動をしている人のようです。アメリカの精神医学会の終身会員であり、米国聖公会やカトリック、禅センターのコンサルタントをしたり、国際外交の長年の課題を解決するコンサルタントなどもして、世界平和にも寄与している人のようです。
このホーキンスと言う人は現代のスウェーデンボルグと言った感じがあります。「わたし」を読んでいる限りは実に論理的であり、分かりやすく神の臨在を「自己」という表現で示しています。そしてキリスト教も仏教も横断するように、統合的にその性格と違いを表現しています。
私は個人的にもこの45年間し続けてきたことが何だったのかはっき り捉えられるようになったような感じがしています。「The Eye of the I 」と「パワーかフォースか」とこの「わたし」は彼の三部作といわれているようですが、ぜひ残りの二作も読んでみたいと思っています。「パワーかフォースか」はすでに図書館から借り出してあります。
どれもかなり厚い本なので値段も高いです。図書館に入れてもらって、借り出し読んでみることをお勧めします。新教会の新しい発展の形を見るような感じもします。
2010年6月13日(日)牧師 國枝欣一
仏教と殆ど無縁と言ってよいほどの私の環境ですが、土屋さんのご主人のご病気に関わらせていただいた時に、教会で葬儀を挙げたらお寺の墓地に入れるかと言うことが問題となり、ご夫妻と共に真言宗のお寺の住職さんにお会いすることになりました。住職さんのお話は興味深くスウェーデンボルグ神学と似ているところもあり、結果としては土屋さんのご主人の葬儀は私が司式をして俗名のままお寺の墓地に入ることができ、土屋さんは満足して旅立って行かれました。それ以来真言宗の歴史、空海の人となり、空海の教えを学んできましたが、空海は権力や当時の仏教を無視せずにしかし常に一定の距離を保って来たことに興味を惹かれています。国法は究極的には仏法と重なると言い、都から離れた高野山に根本寺を建てました。
スウェーデンボルグは 国の経済を支える重要な機関である鉱山局にいましたし、国会議員でもありましたが、最終的にはそれらを全部止め、彼は聖書の内的意味を解き明かす著作活動に専念しました。政治や権力とは距離を置きながら、教会の統合化と改革を志したといえると思います。最古代教会、古代教会、ユダヤ教会、キリスト教会、新教会という流れは、空海の密教と顕教に分けそれを10段階に分類した考え方に通ずるものを感じます。
2010年6月6日(日)牧師 國枝欣一
もう25年も前のことですが、通関士受験科という講座の責任者だった事がありました。講師はみな税関OBで、港湾関係の会社に天下った人々でした。年齢的には60歳前後の方々でした。毎年講座の評価会をするのですが、講座の話が終わると出てくる話はお墓の話でした。40代の私にはピンと来ない話でしたが、牧師になって私の頭の中にずっとあることのひとつに教会のお墓があるといいなということがあります。
いろいろな墓地に行ってみると、かなりたくさんのお墓が無縁になり放置されていたり、管理する家族のなくなったお墓の墓石が一箇所に集められているのを見出します。先祖代々の墓と言っても途中で途切れてしまうことも間々あるのだと思います。まして現代のように核家族化していくと、何世代にもわたってお墓を維持することなかなか困難です。教会にお墓があれば夫婦だけの世帯でも、結婚しなかった人でも、たとえ子供があっても、教会と言うコミュニティーが維持していくので心配は少なくなります。
死後の世界があることをしっかり知っている新教会人は、お墓のことを余り心配しなくても済みそうですが、それでも人間としての喪失感や寂しさ、心配は避けて通ることはできません。そのためにも教会にお墓があれば支えあうことももっとしやすくなるかなと感じています。
2010年5月30日(日)牧師 國枝欣一
神の愛は「無条件の愛」といわれます。行いが正しい、正しくない、良いことをした、しない、頭が良い悪い等、一切関係のない愛が「無条件の愛」です。そこに存在している、それだけで愛される、その様な愛を「無条件の愛」といいます。
ところが私たちの人生は「条件つき愛」に満ちています。「良い子だったら・・・」「宿題やったら・・・」「テストでよい点を取ったら・・・」「早くご飯を食べたら・・・」「兄弟げんかをしなかったら・・・」「お手伝いをしたら・・・」等等。この「もし・・・」の付く愛の表現は全部「条件つき愛」の表れです。大人になっても「予算達成したら・・・」「子供を産んだら・・・」「何時までにこの仕事を終えたら・・・」と続きます。
それらの条件を満たせないことで、私たちは自信を失い、他人の評価ばかりを気にし、他人と自分をいつも比べるということになります。結果として辛く暗い人生(地獄の生活)を送ることになってしまいます。人は無条件の愛に接することで、リラックスし、自信を持ち、朗らかになり、エネルギーが出てき、人々とつながることができます。
この「無条件の愛」は神の似姿である私たちすべてに備わっているものです。それを使うときに、私たちの中で神が働きます。誰にも与えられているものをフルに使いたいものです。
2010年5月16日(日)牧師 國枝欣一
密教は仏教の一流派で、容易に知りえない秘密の教えと言う意味で、日本のほかに、中国ネパール、チベットなどにも広まった教えで、神秘主義は神や絶対者などの実在を独自の直接的、内面的な経験や直感によって捉えることができるという哲学、宗教上の立場であると広辞苑にあります。私たちの教派はスウェーデンボルグの霊的、神秘的体験に基づく神学から成り立っていますので、神秘主義ということができます。広辞苑には書いてありませんが、ようするに、東洋に端を発したものを密教と言い、西洋で始まったものを神秘主義といいますが、二つは結局同じものではないかと私は考えます。
日本では密教と言うと空海によって創立された真言宗や最澄によって確立された天台宗が有名ですが、特に空海の教えとスウェーデンボルグの教えは大変よく似ています。空海と最澄の大きな違いは、空海は奈良仏教を統合化したのに対して最澄は経典を選択的に使い奈良仏教と対立しました。この最澄の選択的経典の使い方は鎌倉仏教に受け継がれていきます。
教会の歴史では旧教カトリックと新教プロテスタントに分けますが、スウェーデンボルグの教えの中では私たちの新教会に対してプロテスタント教会を旧教会と呼びます。それが典型的に現れるのが三位一体論に対する三一性です。私たちが「一人の神」を大切にすることは重要なことですが、現代のプロテスタント教会が三位一体論を唱えているから三つの神を信じていることになると言うのはちょっと短絡的過ぎると思います。私達は現代に生きるものとしてもっと旧教も新教も良く知り、新教会がキリスト教会全体を統合化できる力を持ちたいと思います。
2010年5月9日(日)牧師 國枝欣一
エリザベス・キューブラー・ロスというスイス生まれのアメリカ人精神科医は「死ぬ瞬間」と言う本を書いて一躍有名になった人です。1970年代まで医療は直す技術で、誰にでも訪れる「死」と言う問題に関わろうとしてきませんでした。彼女は死者を食いものにする悪徳医師という中傷にもさらされ、病院を辞めさせられるということも経験し、30人のエイズ患者の子供たちを里子にして、その子供たちと共に暮らしながら援助をしようと考えて施設も作りましたが、地域の人々の偏見にも直面し、自宅も放火されるという目にも会っています。
今では日本でも患者にインホームドコンセント (告知)することはごく普通になりましたが、それが重要なのは患者に嘘をつかずに真理を伝えるということにあります。真理を伝えると言うことは生の医学的データーをそのまま伝えることではありません。患者や家族が分かるように真理を伝えなければなりません。
キューブラー・ロス医師は子供たちにも例外なく告知しています。子供には理解できない、患者は告知されたら気落ちして死期を早めてしまうなどと言うのは、実は患者自身を心配すると言うより、家族や周囲の人自身の恐怖から来ているということを知るべきです。
真理を患者に伝えることは一時期患者にも家族にも辛い時期となりますが、嘘がないためにフランクな関係を患者と作りやすく、最後の時を充実した天国的な時としやすくなります。知恵、理知、知識などは、神から来るものです。彼女はその真理を求めることに一生を捧げました。
2010年4月25日(日)牧師 國枝欣一
地獄という霊的な場所は、相手を出し抜くために何時も隠している部分があって、自分を他と比べ相手より自分のほうが上とみんなが思っているところだそうです。そうだろうなと私も思います。自分をいつも他と比べていると、この世にあっても気が休まりません。常に競争相手といて相手より上にいないと安心できないからです。
天国とは、自分はそのままで相手に仕え合うところといわれています。ここには嘘も秘密もありません。この世にあっても隠すことがないということは実に楽です。嘘があったり隠し事があったりすると、それがバレないように嘘を重ねていかねばならないことがありますが、これは精神的にもかなり大変です。そのままで居られるという事がいかに天国的なのかと言うことが分かります。そういうことから天国では人々は家族以上に家族だと言う言い方がありますが、本当にそうだろうなと思います。
教会に於ける人間関係は主に連なる関係ですが、これは同時にそれぞれの方の中に働いている主を見て信頼し愛し合う関係です。そこでは相手に対する尊敬の念を持った意見も言える関係も含まれます。心理学で言うWin-Winの関係すなわち勝者と敗者の関係ではなく共に勝者になれる関係を目指すことでもあります。こうした関係をつくりたいものです。
2010年4月18日(日)牧師 國枝欣一
主の創造物語は「~あれ!」という主の期待を込めた命令形のことばで始まっています。そして人を神にかたどって創られ、「それは極めて良かった。」と言われ、第七日目を休まれたと書かれています。全てを良しとされたのです。
私たちの東京新教会も主の創造の過程の中に生まれています。そこに集う人々も同様ですので極めて良い存在です。誰一人としてどうでも良い人は存在していません。東京新教会が昭和の初めから続いていることの中に主の祝福があり続けたことは疑いありません。
そこに 深い感謝を感じます。現代の物質主義社会は行き詰まりを見せ、人々は神を求めています。こころの安らぎを求めています。新教会はそうした人々を受け入れる最も良い受け皿のはずですが、そうなれていない現実があります。この苦しみも私たちの霊的成長のために良しとされています。
マグダラのマリアが復活の主に最初に会ったように、主を深く愛する人が主に会います。宇宙全体を司っているその力に私たちも委ねることができればよいのですが、それが私と言う執着心から自由になれずにいます。その執着心が主の招きを見えなく聞こえなくさせています。 総会を通して共に主にあることを憶え、一致することで目前にあることを共に乗り越えて行きたいものです。
2010年4月11日(日)牧師 國枝欣一
私は昔から物にも命があると感じていました。ですからどんなに古くても使えるうちは使いそのものの命を全うさせてやるのが人間の勤めだとも思っています。それが消費者運動、環境保護活動や、自然保護の活動とも結びついていました。今では教会やホライズンの活動で忙しく直接的にはそうした活動には参加していませんが、意識の上では同じところに居ます。
息子が小学校1年生になった時、彼に私の使っていた鉛筆箱をあげました。その鉛筆箱は戦後叔父が使い、姉が使い、私に回ってきたものでした。息子は小学校1年から大学生になってまで、その鉛筆箱を使い続けました。使い捨ての時代に逆行するようですが、私は物の命がある限りそれを使い続けます。
古くなるというのは多分に自分の意識が影響しています。その意識が自分を取り巻いている環境に負荷をかけることになります。先週は復活祭でしたが、命の復活ということはそのものをそのものとしてみる目を持てたときに、そこに存在する命を発見することです。神の働きを見るということは全てに与えられた命が宿っており、自分も含めてその命に気づき、役立ちを全うする、そこに主の復活があると私は考えています。
2010年4月4日(日)牧師 國枝欣
娘の香南子が11年の大学生活をやっと終え、学位を取得し、就職先の大阪に旅立っていきました。昨年3月の時点ですでに論文は発表されており、卒業要件は整っていたのですが、その後の研究中の結果が思うように出ずにさらに一年の研究生活を就職先の了解を得て延長していました。連日終電車まで実験を重ねやっと論文を書き上げての就職でした。
内定取り消しが新聞紙上で問題になっているご時世に、就職を1年待って研究結果を出すようにと言う会社のあることに驚きを感じました。彼女は教師に恵まれ、ラボの仲間に恵まれました。その上会社にも恵まれました。結婚をしていますので、これからしばらく別居生活が始まります。1年後には会社の研究所が藤沢に完成するので二人の生活はまたはじめることができる予定なのですが、どうなることやら。
人間関係に恵まれるということは、心理学的には自己への気づきが深まり、自分の経験していることに精通することですが、宗教的、霊的には自分と周りの人々に働く主の働きに注目することです。主が導いてくださっているということに気づけると謙虚になって、安心して人とつながれるようになります。娘にもそうあってほしいと願っている父親です。
2010年3月28日(日)牧師 國枝欣一
とても温かい心を持ち、人々の役に立ちたいと思っている若い夫婦に出会いました。数ヶ月前にある講座の講師をつとめたときに出会った夫婦でしたが、ホライズンセンターのワークショップに来たときには、二人に何となくよそよそしさを感じました。夫はイライラし、妻は彼の苛立ちに接して戸惑っている様子でした。
正直な彼らはこの課題に取り組みました。1日目に妻の方が自分の表現方法に偏りのあることに気づきました。3日目には夫が自分のいら立ちの原因が妻にあるのではなく、自分の生育暦に起因していることに気づきました。気づいた結果として二人の関係が改善され、人に奉仕するという気持ちがますます強くなってきたようです。
彼らはクリスチャンでもありませんし、教会の礼拝に出たのは先週が初めてという、ごく普通の日本人です。しかし彼らの中に主が働かれ、みことばの復活がまさに起こったのです。生活が大変で日曜日も働かねばならないようなので、すぐ教会と結びつきにくいですが、彼らが内なる教会を育て私たちの交わりにつながってくれたらいいなと祈っています。礼拝に参加して二人はとても温かさを感じたようです。主の働きの大きさを改めて強く感じさせられた学びのときでした。感謝!
2010年3月21日(日)牧師 國枝欣一
毎年書いていますが、北半球のイースターは春です。冬から春への季節の移行は、冬の間葉を落としていた植物が芽を吹き、鳥が繁殖のためにさえずりだし、命の復活を誰でも感じるときだと思います。この春の命の躍動を感じられる地域に住んでいることに幸せを感じます。
私は木が芽吹く前に庭の木々の剪定を行います。 丁度この頃に庭の一角にふきのとうが出てきますのでそれを摘み取り朝の味噌汁の薬味にしたり、自己流のふき味噌をつくります。ふきのとうは発がん性物質を含んでいるということで家内には不評ですが、毎年作ります。ふき味噌を食べ始めるとつくしが出てきます。つくしが終わる頃になるとサンショウが芽吹き始めます。すると今度はサンショウの若葉を摘み取りすり鉢ですって木の芽和えをつくります。作り始めると竹の子が出てきます。この間に山茶花が終わり椿が咲き沈丁花が香り桜が咲きます。これは毎年繰り返される私の春の体験です。
復活祭は北半球のヨーロッパにキリスト教が伝わったときにヨーロッパの土俗信仰と重なって取り入れられたものだということですが、私たちは主の復活イコールみことばの復活と捕らえます。春の芽吹きも鳥のさえずりも主が配慮してこれらを通して私たちにみことばの復活を促しているのです。ただ単に自然的現象としての春の訪れを見出すだけでなく、そこに主の働きを見出しつつ、自分の生活を見直してゆきたいと思います。
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